スパイ小説の効能

 スパイ小説を読むことの効能についても触れておきたい。

 小説は実用書ではないので、読んで面白ければそれで良く、そこに効能など求めるものではないと言う人もいるだろう。しかし、本サイトを通じて一人でも多くの人にスパイ小説を読んでもらいたと思っているので、あえて、二つだけ、スパイ小説ならではの効能について述べる。

(1)複雑な国際情勢が知らず知らずのうちに理解できる

 文芸評論家の石川喬司は『夢探偵』(1981年 講談社文庫)の中で、「スパイ小説の最大の機能は、複雑でシチめんどうくさい政治やイデオロギーのからみあいを、わかりやすく大衆が身近に理解できるような形で娯楽化してみせるところにある」と述べている。また、元外務省主任分析官で作家の佐藤 優も「外務官僚はよく、政治家への世界情勢のブリーフィングに『ゴルゴ13』(デューク東郷という凄腕スナイパーの暗殺請負人を描いた、さいとう・たかをの劇画)を使っていた」と語っている。(2018年11月25日、ニュースサイト「NEWSポストセブン」)

 新聞やインターネットで複雑な国際情勢について知識を得ることはできる。しかし、その場合、「それに関して知りたい」という思いが、意識するにせよ・しないにせよ、読み手の頭の片隅にあるはず。一方、小説や劇画の場合、読者は作品に描かれているドラマ自体を楽しむ。読者はドラマの世界に没入し、主人公とともにスパイ戦を体験し、結果として、知らない間に、その背景にある国際情勢の知識を得ている。

 例えば、アレックス・ベレンスンの『フェイスフル・スパイ』(2007年)は、9.11同時多発テロ以降のスパイ小説を象徴するような作品であるが、それを読むことによって、今日、新聞の国際面を騒がすイスラム過激派など、複雑なイスラム社会の構図を知ることができる。

 スパイ小説には、複雑な国際情勢が知らず知らずのうちに理解できるという効能がある。

(2)部屋に居ながらにして海外旅行が楽しめる

 スパイ小説やスパイ映画では、ベルリン、ウィーン、プラハ、ヴェニス、香港などが舞台として描かれることが多い。ベルリンは、いうまでもなく、東西を分断する〝壁〟によって、両陣営が対峙していた冷戦時代の象徴的な都市。ウィーンは第二次世界大戦直後、アメリカ・イギリス・フランス・ソビエトの四ヵ国によって分割統治されていた。(ちなみに1949年に公開されたキャロル・リード監督、オーソン・ウェルズ主演の『第三の男』は、当時のウィーンを舞台としたサスペンス映画である) プラハはヨーロッパのほぼ中央に位置し、古くからヨーロッパの文化の十字路だった。そして、ヴェニスと香港は文化や商業の要として栄えてきた都市である。これらの都市には多くの人が行き交い、当然ながら、スパイも多数潜入し、暗躍したはず。しかも、いずれも美しい建造物を擁する観光名所。小説や映画の舞台として、うってつけである。

 スパイ小説の作家たちも、たとえば、ライオネル・デヴィッドスンは『モルダウの黒い流れ』(1960年)でプラハを、ヘレン・マッキネスは『ヴェニスへの密使』(1963年)でヴェニスを、ジョン・ル・カレは『スクール・ボーイ閣下』(1977年)で香港を、それぞれ作品を通じて観光案内してくれている。

 スパイ小説には、「(部屋に)居ながらにして外国旅行が楽しめる」(宮脇孝雄、『冒険・スパイ小説ハントブック』、括弧内は筆者補記)という効能がある。