まず、はじめにスパイ小説とは何かについて考えたい。
〝近代スパイ小説の父〟と言われるエリック・アンブラー(1909年~98年)によるスパイ小説のアンソロジー集『スパイを捕まえろ』(1964年 邦訳は1981年 荒地出版社)の巻頭にある「ごく短いスパイ小説史」という副題が付いた、決して短くない序文は、スパイの歴史や扱われ方から解き明かして、スパイ小説を概括する興味深い論評である。
この中でアンブラーは「スパイ小説があり、たまたまスパイを主人公にした小説がある」というアントニー・バウチャー(1950~60年代に活躍したアメリカを代表するミステリ評論家)の言葉を引き合いに出して、スパイを扱った小説が多岐に亘っていることを述べている。そして、彼はアンソロジーを編むにあたって、「スパイ小説とは、中心的登場人物が各種秘密諜報機関の一員である小説」(北村太郎訳)という定義付けを試みている。しかし、そのように定義すると、『あるスパイの墓碑銘』(1938年)など、ふとしたことから、一市井人がスパイ事件に巻き込まれる恐怖を描いた彼の作品の多くがスパイ小説に該当しなくなる。そのため、アンブラーは「スパイ小説の定義は批評家諸君に任せるのが賢明」と、定義付けについて匙を投げてしまっている。
その後、色んな作家がスパイ小説について語っている(例えば、国内では「スパイ小説とは、スリルとサスペンスと恐怖の物語である」〔『深夜の散歩』中村真一郎〕、「スパイ小説は、折々の国際政治状況を反映するコンテンポラリー・ノヴェルである」〔丸谷才一編『私の選んだ文庫本』収載の中薗英助の文章〕など)が、定義として定まったものはない。
しかしながら、「各種秘密諜報機関の一員である・なしにかかわらず、中心的登場人物がスパイ活動に関与している小説」というのが、スパイ小説に対する衆目の一致する認識であろう。そして、「スパイ活動に関与している」というのが、必ずしも主人公がスパイであることだけを意味するのではなく、スパイを見つけることや捕まえることも含んでいることに異を唱える人はいないと思う。ただし、ここで重要なことは―それこそがスパイ小説である所以だが―主人公がスパイ活動に関与しているのは、個人の意思ではなく、諜報機関(軍の情報部や公安警察を含む)、即ち、国家の意思によるものであるということだ。主人公は国家の命令を受けて、もしくは利用されてスパイ行為を働く。あるいは逆にスパイ探しを行う。たとえ、それが少年のスパイ探偵団のような類のものであっても、そこには敵国のスパイ(戦時下であれは、ナチスのスパイなど)を摘発するという国民の義務感や愛国心が、国家の意思を汲み取って行動していることになる。さらにいえば、諜報機関と対峙することも、国家の意思によるものといえよう。この場合、諜報機関は主人公を逮捕又は抹殺するという明確な意思を持っており、それにより主人公は逃亡や反撃という行動を強いられる。
このように主人公がスパイ活動に関わるのは、どのような場合であれ、何らかの形で、そこには国家の意思が働いている。そして、その〝意思〟の主たる目的は、敵対勢力の情報を探ることであるが、そうした情報は普通、機密情報である。このため、相手に気づかれずに密かに探ることが求められる。また、情報を入手するだけではなく、爆破、拉致、暗殺など、直接、相手勢力にダメージを与えるような荒っぽいことも行う。これらの担い手がスパイであり、工作員である。彼らの行為そのものは「窃盗」、「破壊」「誘拐」、「殺人」といった犯罪であるが、国家の意思の下で行われると、「諜報」や「謀略」になる。それが個人の犯罪を描くミステリと、国家の犯罪(敵国スパイを捕まえることは犯罪ではないが、そこに至るまでに水面下で行われてきた内偵や誘き出しは、必ずしも合法的に行われたものとはいえまい)を描くスパイ小説との違いである。個人が私的に人を殺めれば「殺人」であり、ミステリの対象となる。一方、国家が人(特に要人)を殺めれば「暗殺」であり、スパイ小説の対象となる。(ちなみに、松本清張の作品のいくつかに国家の犯罪を描いたものがある。それらがスパイ小説ではなく、社会派推理小説だとみなされているのは、清張の作品が、ある不可解な事件の謎を粘り強い捜査と推理によって徐々に解き進め、それが個人に由来するものではなく、国家がらみの犯罪であることを暴く、そのこと自体に焦点を置いたものだからであろう)
そうしたことを踏まえて、あらためてスパイ小説とは何かについて考えた場合、筆者はアンブラーの定義をもじって次のように定義したい。即ち「スパイ小説とは、中心的登場人物が国家の行う諜報や謀略によって動かされている小説である」
なお、スパイ小説とよく似たジャンルで「国際謀略小説」と呼ばれるものがある。『冒険・スパイ小説ハントブック』(1992年 ハヤカワ文庫)では、国際謀略小説を「謀略あるいは情報そのものを描くことに重点を置いた小説」と定義している。しかし、同ハントブックの中で文芸評論家の長谷部史親(敬称略。以下、本サイトでは氏名の敬称を略す)は、スパイ小説と国際謀略小説とは「全く別個のものだという意味ではなく、ただ単に特定要素が濃厚にうかがえるといった程度の問題」だと述べているように、両者の境界線は極めて曖昧であり、読み手の主観によって、どちらにもなり得る。従って、同ハントブックで国際謀略小説のカテゴリーに分類されている、たとえばロス・トーマスの『冷戦交換ゲーム』(1966年)などは、本サイトではスパイ小説として扱っている。