スパイ小説の魅力を語る前に、スパイ小説がなぜミステリに比べて、それほど広く読まれていないのか、その理由を考えてみたい。それが、「はじめに」で述べた、スパイ小説の解説本がほとんどない理由にも繋がる。
スパイ小説がミステリほどメジャーではない理由は、おそらく次の三つであろう。
一つ目の理由は、登場人物や扱っている内容が、我々の日常生活とは無縁な「諜報」という特殊な世界であるということ。『寒い国から帰ってきたスパイ』以降、スパイ小説に登場する主人公や周囲の人物のほとんどが、その方面のプロになった。場合によっては、大統領など政府の首脳陣も登場する。よき夫や平凡な主婦、隣家の住人などが犯罪を行うミステリの日常性や生活感がない。しかしながら、プロの世界の諜報機関といえども一つの官僚組織である。キャリアとノンキャリア、本社採用と現地採用といった階層的な対立、上司が交代することによって、これまでのやり方が通じなくなること、己の政治的な野心のため、現場の意見を聞き入れずに無理難題を押し付けてくる上層部など、我々サラリーマン社会と同様の事象をそこに見ることができる。また、諜報の世界で行われている陰謀は、何も小説の世界だけのことではない。NSA(アメリカ国家安全保障局)の元局員エドワード・スノーデンが2013年に告発した、NSAが世界中の電話回線やインターネット回線を傍受しているというショッキングなニュースは、諜報機関による犯罪まがいの行いが、決して絵空事ではないことを物語っている。
スパイ小説がメジャーではない二つ目の理由は、特に〝国際謀略小説〟と呼ばれている作品に顕著だが、登場人物がやたらに多いこと。カバー袖の登場人物一覧を見ただけで、げんなりする人もいるだろう。しかし、登場人物が多いのは何もスパイ小説に限ったことではなく、ドストエフスキーやプルーストの小説にもみられることである。筆者の経験で言えば、登場人物が多くても、本当に重要な人物は主人公を含めて、せいぜい5名程度である。その5名も、登場人物一覧では単なる名前と肩書、即ち〝記号〟にすぎないため、頭に入りづらい。物語の中で、それぞれの人物が動き出すことによって、その人物の顔形や声などが無意識に読者の頭の中でイメージされ、知らない間に人物(5名に限らず、他の脇役も)を覚えているものだ。思い出せないときだけ、カバー袖の登場人物一覧で確認すれはよい。「案ずるより産むが易し」とは、このことである。
スパイ小説がメジャーではない三つ目の理由は、スパイ小説がミステリより低級だというイメージであろう。007やミッション・インポッシブル・シリーズの映画の印象が強いため、スパイ小説も、映画に象徴される超人的なスパイ・ヒーローが活躍をみせる、内容の浅い読み物というイメージを多くの人が持っているのではないだろうか。これについては、「スパイ小説と文学」の頁で詳しく述べているが、スパイ小説は、そのような荒唐無稽で安っぽいものばかりではない、ということを強調しておきたい。
さて、本題のスパイ小説の魅力についてであるが、そのおもしろさは、どこにあるのだろうか?
たとえば、素人がスパイ事件に巻き込まれるタイプの作品がある。このタイプのスパイ小説の魅力は、平穏に暮らしていた主人公が、ある日突然、スパイ事件に巻き込まれる〝恐怖〟である。スパイの嫌疑をかけられた恐怖、敵側のスパイや官憲に追われる、あるいは捕らえられた恐怖など、いわゆる手に汗握る面白さは、巻き込まれ型スパイ小説の真骨頂といえよう。
しかしながら、素人がプロの組織(警察や諜報機関)から逃げおおせること、いわんや、それに立ち向かうことなどは、実際には不可能といってもよいだろう。こういうことはフィクションとしては面白いかもしれないが、現実には起こり得ない。むしろ、巻き込まれる場合で実際に多いのは―昔から、今も、そしてこの先も―お金・性癖・隠しておきたい過去などの急所を敵側に握られ、スパイとして利用されるケースだ。アンブラーの『ディミトリオスの棺』(1939年)の中に、海軍省のある役人が金絡みで抜き差しならない状況に陥れられ、海図を盗むことを強要される話しが出てくる。敵側がいかに巧妙に、狙い定めた人物を陥れるか、そのプロセスもさることながら、陥れられた人物の口惜しさと悔恨、そして、いつスパイ行為が露見するかもしれないという不安は、心理スリラーとして格好の題材である。だが、エンターテイメントとしてみた場合、手に汗握る〝動的な〟面白さに欠けるためであろうか、こういうタイプの〝巻き込まれ〟をメインとした作品は―部分的に描かれているものは、いくつかあるが―意外と少ない。
一方、冷戦時代に入ってから主流となった、〝組織〟による諜報を扱ったスパイ小説では、たとえば敵国に潜入させていた味方スパイの救出、相手組織に偽の情報を掴ませる、あるいは、それを発展させた偽装亡命など、東西両陣営による虚々実々の諜報戦が描かれている。このタイプのスパイ小説(「エスピオナージュ小説」と呼ぶこともある)の魅力は、まさに狸と狐の化かし合いにも似た互いの組織による権謀術数である。また、組織がより官僚化し非人間的なものになると、組織の歯車として使われる末端スパイの悲哀や組織に対する復讐など、〝組織と個人の対立〟も新たな面白さとして加わった。
さらに、この狸と狐の化かし合いの均衡が崩れ、もし、いずれかが戦勝国になったらと、作者が想像力を逞しくて描いた、たとえば、ソビエトに占領されたイギリスというディストピアを舞台としたスパイ小説は、あたかもSF小説のような面白さがある。
そして、スパイ小説の最も根源的な魅力は、仲間内から情報が漏えいしている疑い、即ち「この中にスパイがいるかもしれない」という疑心暗鬼と恐怖、そして、「この中の誰がスパイなのか?」というスパイ探しの面白さであろう。売春とスパイは人類最古の職業であるとよく言われるが、スパイ探しは有史以来、人類が絶え間なく経験してきた、最も古くから存在するスパイとの関りである。そして、これは現代の我々の身近な社会においても、たとえば職場や組合などで、しばしば見られる事象だ。一般人が普通に生活を送っている限り、国家が絡むようなスパイ事件に巻き込まれることは、まずあり得ない。当然、諜報という秘密の世界とも無縁だ。しかし、自分の所属する組織にスパイが潜り込んでいる、そして、それは誰かとスパイ探しを行うことは、現実の生活においても、まま起こり得ることである。
このようにスパイ小説は、スパイ事件に巻き込まれる恐怖を描くと、サスペンス小説的な面白さをもつ。また、我々の知らないところで繰り広げられる諜報機関の権謀術数は、社会の裏面や闇社会を描いた暗黒小説にも通じる。あるいは架空のディストピアを舞台にすれば、SF小説のような魅力が生まれる。そして、スパイ探しは、言うまでもなく、フーダニット型ミステリ(Who done it? 即ち誰が殺したのか、という謎解きを主とした本格派推理小説)としての面白さがある。
しかし、これらの魅力や面白さは、明確に線引きできるものではなく、極めて重層的だ。たとえば、エリック・アンブラーの『あるスパイの墓碑銘』は典型的な巻き込まれ型スパイ小説であるとともに、スパイ探しのフーダニット型ミステリでもある。また、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー・スパイ』(1974年)は、サーカス(英国秘密情報部)とモスクワ・センター(ソ連情報部、即ちKGB)という組織対組織の暗闘を描いたものだが、同時にサーカス内部に潜むモグラ(ソ連の二重スパイ)探しというフーダニット型ミステリでもある。
ボワロ&ナルスジャック(1950~60代に活躍したフランスを代表するサスペンス・ミステリのコンビ作家)は、『推理小説論』(1964年、邦訳は1967年 紀伊国屋書店)の中で、「スパイ小説は問題小説(あたかも謎解き問題を解くかのように、名探偵が最後に犯人を言い当てる本格派推理小説のこと)、黒い小説(暗黒小説のこと)、サスペンスもの、サイエンス・フィクションなどが交叉する地点に位置している」(寺門康彦訳。括弧内は筆者補記)と述べている。スパイ小説の魅力を端的に言い表した、まさに至言である。