キム・フィルビー事件を描く 『ティンカー、テイラー、ソルジャー・スパイ』ジョン・ル・カレ著/菊池 光訳

ハヤカワ文庫

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 いずれは長官にと目されていた英国秘密情報部のエリート幹部が、実はソ連の二重スパイだったという衝撃的な事件、いわゆるキム・フィルビー事件は多くの作家たちの創作欲を掻き立たて、これに材を得たスパイ小説がいくつも発表された。グレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』、レイ・デイントンの『イプクレス・ファイル』、マイケル・バー・ゾウハーの『真冬に来たスパイ』、最近ではチャールズ・カミングの『ケンブリッジ・シックス』などがある。しかし、何といっても代表格は、1974年に発表されたジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー・スパイ』であろう。

 ことの発端は、香港に駐在するサーカス(英国秘密情報部)の工作員、リッキー・ターが、イリーナというソビエト通商使節団の女性から聞いたサーカス内部にソ連の二重スパイ(モグラ)がいるという話しである。彼女は亡命を望んでおり、ターはそれを手配すべく、本国へ打電した。しかし、翌日、イリーナは突如、行方不明になってしまう。必死で彼女を探すターは、空港で係員から包帯で顔を覆われた人事不省の女性患者が担架で運ばれ、ソビエトの特別機で飛び立ったという話しを聞かされた。

 苦労してイギリスへ戻ってきたターからこの報告を聞いた、今は左遷の身である上司のピーター・ギラムは、引退生活を送っていたジョージ・スマイリーを呼び出し、モグラ探しを依頼する。組織の内部にモグラがいるので、この仕事は外部にいるスマイリーが適任だというのだ。早速、スマイリーはサーカスの過去の記録や関係者に当たって調査を始めた。その結果、<ティンカー(鋳掛屋)>、<テイラー(仕立屋)>、<ソルジャー(兵隊)>という各々の暗号名を持つ、サーカス中枢部の幹部三人のいずれかがモグラだという確信を得た。それを燻りだすため、スマイリーはある罠をしかける……。

 執拗なまでの克明な細部描写、回りくどくて、もって回ったような表現、途中で何度も頁を戻ったり、カバー袖の登場人物覧を見返したりするなど、とてもスラスラと読めるような小説ではない。しかし、巻末の解説で文芸評論家の向井 敏が指摘しているように、そうした晦渋な文体・描写が濃霧に包まれた二重スパイの世界や、スマイリーの緻密で根気強い調査と実によくマッチしているのだ。そして、ベールに覆われた迷宮のような世界を諦めず読み進めていけば、やがて、断片的だった細部の描写がことごとく繋がっていき、読者の前に驚くべき姿を現す。

 本作品は、ジョージ・スマイリーが宿敵であるKGBの大物、カーラと知力を尽くした戦いを演じるスマイリー三部作の劈頭を飾るものであるとともに、前作『寒い国から帰ってきたスパイ』で名声を博したジョン・ル・カレの名を不動のものにした一冊である。