ハヤカワ文庫
本作品は『あるスパイの墓碑銘』と双璧をなす、エリック・アンブラーの初期の代表的作品である。
イギリスの経済学者で、ミステリ作家でもあるチャールズ・ラティマーはトルコ旅行をしていたとき、あるパーティーで知り合った同国秘密警察長官のハキ大佐から、ディミトリオスという人物の話しを聞かされる。ギリシャ生まれの元いちじくの荷造り人。スミルナでのユダヤ人金貸強盗殺人を皮切りに、ソフィアとトルコでの要人暗殺未遂、ベオグラードでのスパイ行為、パリでの白人女性売買やヘロイン密輸団の主犯として、各国からお尋ね者になっていた国際的な犯罪者である。その彼が、今、警察の死体置場で横たわっていた。興味を持ったラティマーは、ディミトリオスの伝記を書くため、彼の足跡をたどる。
スミルナ、ソフィア、ベオグラード、パリへと、ラティマーは過去にディミトリオスと接触のあった人物を訪ね歩き、「化石化した骨の断片から先史時代の動物の完全な骨格を組み立てる」(菊池 光訳) ように、彼の輪郭を徐々に浮き彫りにしていく。
特に秀逸なのはベオグラードでのスパイ事件。1926年、イタリアはユーゴスラビアの海軍省に保管されている機雷の敷設位置を記したオトラント海峡の海図を手に入れるため、あるスパイを雇う。彼は海軍省の役人ブリックに目を付け、ドイツの光学機器メーカーの代表と偽って、彼に取り入り親密な関係を築く。ブリックは、そのスパイから紹介された男爵(実はディミトリオスがなりすましていた)に誘われ、賭博場で懸けトランプを行う。しかし、最初から仕組まれたことだったので、たちまち借金をつくってしまう。返済に窮したブリックに対して、男爵は借金を肩代わりする見返りに、海図を盗むことを強要する。断れば警察へ突き出される。抜き差しならない状況に陥ったブリックは、やむを得ず、要求を飲む。昔も今も、軍事機密をめぐるスパイ事件は、こうしたお金やセックスで弱みを握られた役人や技術者から漏えいしていく。本エピソードはディミトリオスの悪行の一事例にすぎないが、これだけでも一遍の優れたスパイ小説を読んでいるかのようだ。
ディミトリオスとは何者なのか? 巻末の中薗英助の解説によれば、本作品が書かれた1939年という時代背景に照らし合わせて、アンブラーはディミトリオスという極めて狡猾で残忍な悪の権化のような人物を通して、当時のヨーロッパで台頭してきたファシズムに対する恐怖、不安をあぶり出そうとしたらしい。そして、こうした不安と混迷の時代を「水を得た魚のようにわたり歩いた」(中薗英助)のがディミトリオスであるという。
いつの時代も社会が不穏になってくると、ディミトリオスは姿形を変えて、我々の前に現れ出てくることを、本作品はスパイ小説(むしろ暗黒小説)という形で語っている。