マキャヴェリズムの挟間で犠牲にされた男『ドイツの小さな町』ジョン・ル・カレ著/宇野利泰訳

早川書房

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 ケルンの南約20キロ、ライン川沿いにある人口30万人の小さな都市ボン。ベートーヴェン生誕の地であり、古くから文教都市として栄えてきたこの地は、冷戦時代、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首都だった。

 物語は、この小さな町にあるイギリス大使館を舞台にして展開する。ことの発端は大使館から大量の機密文書が紛失し、リオ・ハーティングという職員が失踪したことだった。彼はソビエトのスパイだったのか? 疑念が大使館を覆う。もし、機密文書の紛失が明るみになれば、イギリスの信用は失墜し、西ドイツとの関係も悪化する。そこで、イギリス政府は事件を捜査するため、ロンドンからターナーという外務省の保安部員を現地へ派遣した。規則で定められている保安対策が杜撰だったうしろめたさもあって、大使館の職員は一様に口が重たかった。しかし、ターナーは持ち前の押しの強さで、彼らから事実を聞き出していく。やがて、浮かび上がってきた真相とは?

 失踪したハーティングは大使館職員といっても、現地採用の臨時職員だった。「わしがじきじきに質問してよい身分の男でない」、「あれだけ頭がいいんですから、あんた方みたいな身分に生まれていたら、さぞかし出世したことでしょうね」と、官房長や守衛らが語る言葉に、階級社会であるイギリスの一端を見ることができる。ハーティングは上流階級出身者が占める大使館内で見下された存在だったが、巧みに彼らに取り入って雇用契約を更新させていた。彼には、そうしなければならない理由があったからだ。

 作品の時代背景は1960年代後半。西ドイツはNATOに加盟していたものの、費用だけ負担させられて指揮権は英米仏が握っていた。そして、戦後20年経っても、ことあるごとにナチス時代のことを責められる。誇り高きゲルマン民族の不満はナショナリズムの高まりをもたらし、国内各地で反英デモが頻発していた。一方、イギリスは自国の経済停滞の打開を図るため、EC(ヨーロッパ共同体)への加盟を目論んでいた。しかし、このままでは、それが頓挫しそうな雲行きである。そこで、イギリスはハーティングの失踪を利用して、西ドイツにある取引を持ちかけた……。

 イギリスと西ドイツ、両国の〝マキャヴェリズム〟(訳者あとがき)の挟間で犠牲になった一人の男の姿を通じて、国際政治の駆け引きを、スパイ小説という形で描いた傑作である。実際にボンのイギリス大使館で外交官として勤務した経験をもつジョン・ル・カレならではこそ、書き得た作品であろう。

 EU(欧州連合)離脱問題で混迷する今日のイギリス。今、改めてこの小説を読むことに意味を感じる。