集英社
素人スパイが捏造した情報によって政府が翻弄されるスパイ小説といえば、グレアム・グリーンの『ハバナの男』(1958年)が思い出されるが、それに触発されてジョン・ル・カレが1997年に発表したのが本作品である。
ハリー・ペンデルは政府関係の多くの要人を顧客に持つ、パナマでも名の通った仕立屋だった。しかし、ある日、オスナードと名乗る男が店にやって来た時から運命は狂い出す。
開通以来、約80年に亘ってアメリカの統治下にあったパナマ運河は、1999年12月末をもってパナマへ返還されることになった。しかし、運河は巨額の利権を生みだすため、アメリカが撤退した後、新たな国が運河を支配することに危惧を抱いたイギリスは、運河を巡るパナマ政府や各国の動きを探るため、情報部員のオスナードを現地へ派遣した。
愛想が良く如才ないハリーを前に、お客たちは気を許して色んな事を話す。オスナードは、それを情報として報告するようハリーへ求めた。農地の投資に失敗し、莫大な借金を抱えていたハリーは、これに応じる。そして、パナマ大統領をはじめ、彼のVIPな顧客たちのちょっとした会話の切れ端から、「ジャップが運河を手に入れようと画策している」、「賄賂まみれの政府に代わって、パナマを真の民主国家にしたいと願っている市民・学生グループが組織化されている」など、オスナードが喜びそうな話しをでっち上げた。
果たせるかな、ハリーの情報はイギリスを小躍りさせた。これこそ求めていた情報だった。イギリスの真の狙いは、パナマを再びアメリカに統治させることによって、運河を〝アジアと南アメリカ合作の奸智に長けた陰謀〟(訳者)から守り、これを足掛かりに当地での発言力を強め、かつての大国としての威信を取り戻すことだった。「我々には知恵があり、彼ら(アメリカ)にはパワーある」(括弧内は筆者)とオスナードの上司の鼻息は荒い。
ある男の捏造した情報が思いもよらない事態を招く悲喜劇を通じて、政府や軍隊を動かす〝大義名分〟の危うさ、それを旗印に自国の都合を推し進める大国のエゴを、本作品は見事に活写している。それが絵空事でないことは、作品が発表されてから7年後の2003年、アメリカがフセイン政権を倒すため、イラクが大量破壊兵器を保有しているという情報を捏造し、それを大義名分としてイラク戦争を引き起こしたことでも証明できよう。
登場人物は、いずれも欲望に忠実でどこかおかしみがあり、巷間、晦渋だと言われるジョン・ル・カレの作品にしては珍しく、ユーモアが効いたものとなっている。
『ハバナの男』と『パナマの仕立屋』……共に南米の小国を舞台に、良き家庭人であり商人である小市民が、スパイ戦に巻き込まれる姿をユーモラスに描いた作品である。両作品を、是非、読み比べてみてほしい。