ハヤカワ文庫
スパイ小説の中でも、国家元首や諜報機関のトップなど、その国の要職を務める人物が数多く登場し、敵国政府との間で繰り広げる虚々実々の諜報戦を描いたものを〝国際謀略小説〟と呼ぶ。その最右翼はフレデリック・フォーサイスの作品であろう。現実も、さもありなんと思わせる国際政治の裏側にあるダイナミックな陰謀が作品の魅力である。反面、個々の登場人物は、あたかもチェスゲームのコマのように動かされるだけで、読者が彼らに感情移入する余地は少ない。その点、マイケル・バー=ゾウハーの作品は、国際謀略小説でありながら、読者は主人公と同化し、彼らとともにスリルやロマンスを共有する、小説本来のプリミティブな面白さを持つ。中でも、『パンドラ抹殺文書』は、それが最も成功した作品であるといってもよい。
物語はCIAの女性エージェントがモスクワで機密物の受け渡しに失敗し、KGBに逮捕されるところから幕が開く。女性エージェントの逮捕によって、アメリカがKGB上層部に潜ませていた〝パンドラ〟というコードネームを持つスパイ(モール)の存在が彼らに察知される。さらに、そのスパイの正体を暴く鍵となる古文書がロンドンの公立記録保管所にあることが分かり、KGBはそれを手に入れるため行動を開始した。ところが保管所の係員の手違いにより、古文書はシルヴィーというフランス娘に渡ってしまう。KGBの魔の手が彼女に迫るが、偶然、その場に居合わせたCIAエージェントのジェームズによって助けられた。こうして、KGBの追手から逃れるため、二人の逃亡劇がはじまるのだが、行く先々で追手が襲撃してくることから、ジェームズはある疑念を抱いた。CIAの中枢部にKGBのモールが潜入しているのではないか?
物語の柱はジェームズとシルヴィーの手に汗握る逃亡劇だが、ソ連共産党書記長のブレジネフやKGB議長のアンドロポフなど実在する人物によるクレムリン内部の権力抗争や、ミグ25亡命事件(1976年にソ連の戦闘機ミグ25が函館空港に着陸し、パイロットのベレンコ中尉が亡命した事件)が物語に重要な役割を果たすなど、虚実を上手くない交ぜ、物語に迫真性をもたらしている。そして、ラストにはマイケル・バー=ゾウハーの真骨頂である、意表を突くようなドンデン返しが用意されている。
パンドラを守るためCIAは大胆な謀略を仕掛けたが、そこには「駒を正しい位置に置くと、それまでの黒色が白色に、白色が黒色に一気に入れ替わる」(広瀬順弘訳)驚くべき真相が隠されていた。 1980年に発表された本作品は、作者の代表作と目されるものであり、週刊文春の1981年度「傑作ミステリーベスト10」で、第6位(翻訳作品では第2位)に選ばれている。