ハヤカワ・ポケット・ミステリ
借金をして手に入れたスポーツカーを乗りまわし、おしゃれやデートにうつつを抜かしているニコラス・ホウィッスラーは、現在の安月給の身が不満だった。そんなある日、カナダで缶詰工場を経営するニコラスの叔父が亡くなり、遺産が彼に譲られるという思いがけない知らせがもたらされた。
そのことを彼に知らせたカンリフという弁護士から、ニコラスは当座の金として200ポンドを受け取ったが、たちまち借金の返済で消えてしまう。そこで、さらに金の追加を要求するため、再度、カンフリの事務所へ出向くと、叔父の死亡というのは真っ赤な嘘で、200ポンドをすぐに返済するよう迫られた。しかし、ある簡単な仕事―工場視察を装って、チェコスロバキアの指定されたガラス工場を訪問し、持参した旅行案内書をわざと置き忘れたふりをして、再び持ち帰ってきたら、借金を帳消しにすると言われ、ニコラスはこれを引き受けた。
平凡な青年がひょんなことからスパイ事件に巻き込まれる恐怖を描いた作品である。原題はNight of Wenceslas。直訳すれば〝ウェンツェスラスの夜〟。ウェンツェスラスとは〝プラハの中心街〟という意味だ。
中世の面影を残す美しい街並みと、スタメナが讃えたモルダウ川が流れる魅力的な都市、プラハ。しかし、作品が発表された冷戦当時、鉄のカーテンの向こう側にある東欧は社会主義国家だった。秘密警察や彼らに協力する市民がいたるところで目を光らせ、少しでも国家にとって好ましからざる人物だと疑われると、たちまち秘密警察に引っ張って行かれるという影の面を持ちあわせていた。本作品でも、ニコラスはシメノヴァというアマゾネスのような肉体を持つ大女とアバンチュールを楽しむ一方で、秘密警察に追われ、ウェンツェスラスの裏通りを路地から路地へと逃げまどう恐ろしい体験をする。
作品の山場は、秘密警察の監視の目をかい潜って、ニコラスがいかにして出国するかだ。「僕のような、およそ性格的にいって、英雄的な行動に不向きの男が、どうしてこのような危険な行動に対して、まごつきもせずにとびこんでゆけるのか、それが僕自身に不思議に思えてならなかった」(宇野利泰訳)という彼のモノローグが物語るように、〝甘ちゃん〟の青年が、その場その場で機転をきかせて自分一人の力で危険を切り抜けていく。ある意味、この作品はスパイ事件を通した若者の成長譚としても読むことができる。
作者のライオネル・デヴィッドスンは処女作である本作品で、1960年の英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞を受賞している。さらに『シロへの長い道』(1966年)と『チェルシー連続殺人事件』(78年)でも同賞を受賞し、この賞を生涯で三度も受賞した稀有な作家である。