アラブ人になりすましたドイツ軍のスパイ 『レベッカの鍵』 ケン・フォレット著/矢野浩三郎訳

新潮文庫

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 ケン・フォレットの『針の目』(1978年)は、ノルマンディー上陸作戦をめぐるスパイ小説だが、本書(80年)はロンメル軍団とイギリス軍による北アフリカ戦線を背景とした作品である。

 アラブ人の風体をした一人の男がリビアのエル・アゲイラから単身、徒歩でサハラ砂漠を越えて、当時(1942年)、イギリスの支配下にあったエジプトのカイロへ潜入した。男の名はアレックス・ヴォルフ。ドイツ国防軍情報部のスパイだった。ヴォルフは愛人であるベリーダンサーのソーニャを使った色仕掛け(ハニートラップ)によって、カイロに駐在するイギリス軍総司令部の少佐から機密情報を盗み出す。その情報によって、ロンメルはリビアのイギリス軍を撃破してトブルクを奪取。さらにその勢いに乗じてエジプトとの国境を突破し、エル・アラメインにまで迫っていた。一方、ヴォルフの潜入に気づいたイギリス軍情報参謀部のヴァンダム少佐は、現地のユダヤ人女性、エレーネの協力を得てヴォルフを追う。

 史実に材を得て、〝if〟の想像を楽しませてくれるのが、ケン・フォレットの作品の醍醐味だが、本作品においてもヴォルフのモデルになった実在の人物がいる。国防軍情報部のジョン・エプラー。彼はカナリス提督の命によって、アラブ人になりすましてカイロへ潜入し、ヒクマット・ファハミーというベリーダンサーからイギリス軍の情報を得て、それを暗号無線でアテネにあるドイツ国防軍へ伝えていた。その暗号のコードブックが、作品のタイトルの由来にもなっているダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』だった。

 フォレットの作品は、脇役に至るまで存在感がある。庶民階級出身ながら元帥にまで上り詰めたロンメルに対して反感を抱くケッセルリング元帥。彼はロンメルがヴォルフの情報を重視しているのを知ると、「カイロのとるにたらん諜報員からの情報に基づいて、戦闘プランを練るわけにもいかんよ」(訳者)と毒づくが、この辺りにスパイに偏見を持つケッセルリングと、情報そのもので判断するロンメルの違いが窺える。また、勇気や判断力など指揮官としての資質を欠くくせに、ヴァンダムに対して高圧的な態度をとるボギー中佐。我々の職場にも、必ず一人や二人、このようなタイプの上役がいるものだ。しかし、何といっても、真骨頂は女性描写である。食欲と肉欲に貪婪で気性の激しいソーニャ。ヴァンダムに惹かれるがゆえに、彼の冷めた態度に、自分をヴォルフを捕える道具としてしか見ていないのではないかと煩悶し、怒るエレーネ。この二人の女性がそれぞれに魅力的だ。

 『針の目』のような張り詰めた緊張感はないが、煽情的なベリーダンス、猥雑なカイロの下町、幻想的な月明かりの砂漠など、中近東ならではのエキゾチックな舞台意匠が〝ロマンチック・スパイ〟と呼ばれるケン・フォレットの作品に、その効果を添えている