スパイ小説と観光旅行『ヴェニスへの密使』ヘレン・マッキネス/榊原晃三訳

ハヤカワ文庫

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 文芸評論家の宮脇孝雄は「スパイ小説は(部屋に)居ながらにして外国旅行が楽しめる」(『冒険・スパイ小説ハントブック』ハヤカワ文庫、括弧内は筆者補記)と述べている。1963年に発表された本作品も、その言葉通り、大聖堂、サン・マルコ広場、運河に浮かぶゴンドラなど、中世の面影を残す水上都市、ヴェニスの魅力を余すことなく堪能できるスパイ小説である。

 フランス大統領ド・ゴールはアルジェリアの独立を認めたため、OAS(フランス極右民族主義のテロ組織)から暗殺の標的にされていた。これを利用してソビエトが、ある陰謀を計画。暗殺にアメリカが一枚噛んでいるかのように見せかけた手紙を捏造し、ヨーロッパでのアメリカの信頼を失墜させようとしていた。

 この陰謀を後ろで画策していたのがソビエト共産党の大物、カルガノフ。手紙はカルガノフの部下であるルノワールの愛人、サンドラが所持していた。サンドラはアメリカ人だが、ソビエト共産党のスパイになっていた。しかし、最近、モスクワから召喚命令を受けて怖くなり、密かに西側への亡命を目論んでいた。彼女はパリでCIAと接触し、自分を助けてくれたら、見返りにその手紙を渡すと持ち掛ける。場所は、この週末、自分とルノワールが過ごす予定のヴェニス。手紙の受取人として、彼女の元夫でパリを訪れていたアメリカ人記者のビル・フェナーを指名した。フェナーはCIAの要請を受け、恋人同士を装うためクレアという女性を同道して、国際列車でヴェニスへ向った。

 訳者(榊原晃三)「あとがき」によれば、作者のヘレン・マッキネスは、海外ではエリック・アンブラーやグレアム・グリーンらと並ぶ著名なイギリスのスパイ小説作家で、生涯に亘って20数編もの作品を発表した。我が国では、本作品の他、『ローマの北へ急行せよ』、『ダブル・イメージ』、『ザルツブルグ・コネクション』、『マラガからの秘密指令』が邦訳されている。作品の多くが、たとえば、オーストリアのザルツブルグやスペイン南部のマラガなどの魅力的な観光地を舞台に、スパイ事件に巻き込まれた主人公とヒロインが力を合わせて危機を乗り越え、ハッピーエンドを迎えるというもので、ロマンティックで旅行心をそそる彼女の作品は、一世を風靡した。

 しかし、我々と同じ市井人を主人公に据え、その内面をリアルに描くことで、スパイ小説の世界に新境地を拓いたエリック・アンブラー、それを受け継ぎ、スパイ小説を文学にまで高めたグレアム・グリーンの作品に比べて、ヘレン・マッキネスの作品は、ハーレクインロマンス的で、現代の我々に訴えかけてくるような普遍性がない。それゆえ、数多くの作品を遺したのにもかかわらず、彼女の作品は今ではほとんど読まれていない。