旧世界のユダヤ人とアメリカのユダヤ人 『亡命詩人、雨に消ゆ』 ウィリアム・H・ハラハン著/村上博基訳

ハヤカワ文庫

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 4月のある雨の日、ニューヨークのグランド・セントラル駅で、ボリス・コトリコフという詩人がソビエトのエージェントたちに拉致された。ボリスは2年前にソビエトから亡命してきたのだが、なぜ今になって拉致されたのか? 彼は、まだ正式な市民権を持たない<暫定移住者>だったため、行きがかり上、移民帰化局のリアリィがボリス拉致の理由を探ることになった。ボリスが残した詩を手がかりに、一歩ずつ真相に迫っていき、やがて、リアリィはヨーロッパにある、ソビエトからユダヤ人を救い出す地下組織の存在を知った。

 一方、CIAのガスは、任務の失敗で組織を追われた元部下のブルーワーに、ボリス救出を密かに依頼した。暫定移住者はアメリカの法律の埒外にあるため、もし、政府が大っぴらにソビエト管内で救出活動に動けば、戦争行為とみなされかねないからだ。「ボリスを助け出したらCIAへ復帰できる」酒浸りの日々を送っていたブルーワーは、この任務に一縷の望みを託す。そして、かつて鳴らした〝猟犬〟としての能力をふるに発揮して、ボリスを探し求め、彼がロシア公館の5階の一室に監禁されていることを突き止めた。

 物語の最大の見せ場は、ブルーワーが同じアパートの住人である元曲芸師だった飲んだくれ男とともに、ロシア公館に隣接するオフィスビルから、ロープと滑車と椅子を使ってボリスを救出する場面。高所恐怖症のブルーワーは、逃げ出したい気持ちを、「もし、今、逃げたら、このまま一生、惨めな敗北者で終わってしまう」と己を奮い立たせ、窓の外へ身を乗り出す。ある意味、中年男の再生を期す物語として読めるのだが、リアリィの調査とブルーワーの救出作戦が最後まで交叉せず、物語が中途半端に終わっているため、ブルーワーがCIAに戻れるのかどうかは最後まで分からずじまいだ。

 そうした瑕疵があるにもかかわらず、本作品は1977年のアメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞を受賞している。それはリアリィとブルーワーのそれぞれのパートが、優れた推理小説や冒険小説を読んでいるような面白さがあることに加え、これまで描かれることのなかったユダヤ人問題に切り込んでいるからだ。ミステリ評論家の関口苑生は解説で、本作品はユダヤ人対非ユダヤ人という一般的な捉え方ではなく、ユダヤ人としてのアイデンティティを頑なに守る旧世界のユダヤ人と、アメリカ人であるユダヤ人の対比を描いていると指摘している。突き詰めれば、今回の事件もこれが起因しているといえよう。

「おれはブルックリンで生まれた。だったらアメリカ人じゃないか。(中略)祈祷の文句も知らない。聖書も読んだことがない。イデッシュ語もヘブライ語もしゃべれない。そんなおれのどこがユダヤ人だ。えっ?」(訳者)と、気色ばむ作中のユダヤ系警官の台詞が印象に残る。