ベルリンの壁に阻まれた、もう一人の男『偽りの亡命者』 テッド・オールビュリー著/峰岸 久訳

創元推理文庫

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 第二次世界大戦中、ドイツがイギリスへ送り込んだスパイは、ことごとく逮捕され、処刑にされるのと引き換えに、イギリスが作成したニセ情報をドイツへ流すことに協力した。いわゆる「ダブルクロス作戦」である。エーリッヒ・リヒターもその一人だった。戦争が終わると、リヒターはオットー・ベッカーと名前をあらためて、西ドイツへ戻り、やがて政府の高官になった。しかし、ある日突如、東ドイツへ亡命してしまう。だが、これは英国秘密情報部が巧妙に仕組んだ筋書きだった。二重スパイとして優秀だったリヒターをイギリスは戦後も手放さず、今度は東側の情報を得るために使ったのだ。一つだけ彼らの想定外だったことは、リヒターが自分の実力で内務省次官にまで昇りつめたこと。これ程までに優秀な人物がイギリスの二重スパイとして、東ドイツの諜報機関のナンバー2でいることは、イギリスにとって、このうえもなく好都合で、極めて貴重な存在だった。

 しかし、ある日、オットーのもとに彼の過去を知るという人物から一本の電話がかかってきたことによって、運命の歯車が狂いだす。オットーがイギリス側の二重スパイであることが、もし東ドイツやソビエトに知られたら、彼は破滅だ。何としてでも、それを阻止し、オットーを救出しなくてはならない。その任務を命じられたのが、大戦中、リヒターを二重スパイに寝返らせた英国秘密情報部員のデイヴィット・ミラーだった。

 本作品の特筆すべきところは、人物造形の確かさである。ミラーの義母にあたるミセス・ルーカスの女帝然とした憎々しさ、オットーをゆする元憲兵隊軍曹ローリーの小悪党ぶり、ミラーの仕事に理解がなく、寂しさから他に男をつくる妻ペニーの心の弱さ等々……。訳者(峰岸 久)「あとがき」によれば、作者のテッド・オールビュリーは自分の作品について「わたしは自分の小説の中で、スパイ活動や情報活動に従事する人々にも私的な生活があり、そして彼らの仕事がその生活に深い影響を与えていることを示そうと努めてきた」と語っているように、それが登場人物に存在感を与えている。

 東側がオットーに不審を抱き始めたのが予想以上に早かったため、彼の救出は一刻を争う事態となった。ミラーは十分な準備が出来ないまま東ドイツへ潜入。このため、オットーの救出が優先され、ミラーは自力で東ドイツを脱出せざるを得なくなった。雨が降る早朝のブランデンブルク広場に、予定通り迎えのジープが停まると、ミラーは大急ぎでオットーを座席に乗り込ませ、運転手に合図をする。そのときミラーが見たものは……

 ベルリンの壁を扱ったスパイ小説といえば、ジョン・ル・カレの『寒い国かから帰ってきたスパイ』が有名だが、巷間に知られていない本作品も、壁に阻まれた一人のスパイの悲劇を描いた傑作である。