フレンチ警部とスパイ小説 『列車の死』 F・W・クロフツ著/高梨 豊訳

ハヤカワ文庫

画像をクリックするとAmazonの商品ページへ移ります。

 慇懃な執事が出迎える大邸宅や、雪に閉ざされた山荘などで不可解な殺人事件が起こり、物語終盤、探偵が関係者を一同に集めて、天才的な推理で事件の謎を解き明かす大団円が約束事の本格派推理小説。その非現実性に対するアンチテーゼの嚆矢として、クロフツの『樽』(1920年)やフレンチ警部シリーズがよく引き合いに出される。天才型の探偵ではなく、凡人型の探偵が足でコツコツと証拠を集めて犯人のアリバイを崩していく。それまでにはなかったタイプの推理小説であり、江戸川乱歩は『樽』を「リアリズム推理小説の最高峰」と絶賛し、一連の作品は松本清張の推理小説にも大きな影響を与えた。1946年に発表された本作品もフレンチ警部ものの一つだが、これは珍しくスパイ小説である。

 第二次世界大戦最中の1942年、イギリス政府は北アフリカのエル・アラメインをドイツの攻撃から死守するため、軍事上不可欠とされる、ある電子部品(放電管)を国内中からかき集めて軍用列車で輸送した。途中、軍用列車に些細な故障が見つかったため、別の旅客列車を先行させたのだが、その旅客列車がある駅に差し掛かったとき、轟音とともに転覆事故を起こした。レールに破壊工作の跡が残っていたことから、犯人は軍用列車を狙っていたと考えられる。しかし、電子部品の輸送は一部の関係者しか知らない極秘事項。情報が漏えいしていると考えた政府は、ロンドン警視庁に捜査を命じ、フレンチ警部がこれに対処することになった。

 物語は二部構成になっている。第一部では輸送列車の発案、運行、事故、事故調査までが、政府首脳から現場の乗務員や信号手まで、様々な立場から描かれ、あたかも群像劇を見ているかのようだ。特に現場の鉄道マンや鉄道技術に関する精緻な描写は、元鉄道マンだったクロフツの真骨頂である。

 第二部はフレンチ警部と彼の部下たちが、事故の目撃情報や事故現場のわずかな痕跡から、イギリス国内に潜むドイツのスパイを摘発していく、地を這うような捜査が描かれている。

 スパイ小説は冒険小説から派生したジャンルなので、終盤に手に汗握るスリリングな場面が用意されているものが多い。シリアスだと言われるジョン・ル・カレの作品にすら、その要素がある。本作品においてもクライマックスで、フレンチ警部がまるでジェームズ・ボンドのように、ドイツのスパイ連中を相手に派手な立ち回りを演じている。「スパイ小説は、こうでなくっちゃ」と思うのか、それとも、篤実な人柄の持ち主であり、地味だが粘り強い捜査で相手を追い詰めていくフレンチ警部には、およそ似つかわしくないと思うのか、読者によって受け止め方は分かれるであろう。