処女作とは思えない完成度の高さ 『別れを告げに来た男』ブライアン・フリーマントル著/中村能三訳

新潮文庫

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 二枚目で強くて女にもてるジェームズ・ボンドには憧れこそすれ、親近感は抱けない。その点、フリーマントルの作品に登場する主人公は、冴えない風采で、我々と同じような職場や家庭の悩みを抱えている等身大の人物であり、親しみを覚える。

 主人公のエイドリアン・ドッツはイギリス政府の内務省に勤務する亡命者相手の尋問官。年齢30歳、体格は痩せ気味。大学時代から髪が薄くなりはじめ、今ではかなり禿げあがっている。一時、カツラを着けることも考えたが、知人に見破られて大笑いされるくらいなら、禿げたままでいる方をましだと思っている。既婚者だが、子どもはいない。「いったい、あなたは、どうしてそんなに気が利かないの?」、「どうして妥協ばかりしているの?」と口を開けば、悪態しかつかない妻のアニタは同性愛に走り、離婚話が持ちあがっている。また、いつも遅刻を繰り返しているオールドミスの秘書に対して、今日こそ、ガツンと一発、言ってやろうと思いつつも、いざとなると、遠慮して言えないでいる。

 そんなある日、ソビエトの宇宙科学のオーソリティであるパーヴェルが亡命してきた。一月前にも彼の仕事仲間だったベノヴィッチが亡命してきている。しかし、今度の亡命者はベノヴィッチとは比較にならない超大物。イギリス政府の鼻息は荒いが、事情聴取に当たったドッツは何か釈然としないものを感じた。通常、亡命者は罪悪感から自責の念にかられるものだが、パーヴェルは終始、自信に満ちた態度でいる。また、亡命したら家族がどんな迫害を受けるか、家族思いの彼に分からないはずがない。何か裏があるとドッツの勘が警告を発していた。しかし、「もう少し時間をかけて様子を見たい」というドッツの申し出は、パーヴェルの亡命を政治的に利用しようと目論む首相のエベッツから一蹴される。「二人を会わせれば、もっと我々に協力的になるはずだ」と威丈高にドッツを責め、自分の考えを強引に押し付けるエベッツ。ドッツの直属の上司でありながら、彼を庇うことなくエベッツの前で押し黙ってしまう内務省次官のビンズ卿など、我々の職場でも、これとよく似た状況がままあるものだ。結局、パーヴェルの要求通り、彼とベノヴィッチを面会させることになったのだが、それはパーヴェルの思う壺だった。

 確かな人物描写。よく練られた伏線と意表を突く結末。さらには、各章の終りに、さりげなく描かれているソビエトの某秘密委員会での短い会話により、何か陰謀が進められていることを匂わせる心憎いテクニックなど、とても、これが処女作(1973年)とは思えない完成度の高さであり、作者の名を一躍有名にしたのも頷ける。

 原題はGoodbye to an Old friend。ラストでパーヴェルが口にした一言である、このタイトルも洒落ているが、邦題もそれに劣らず魅力的だ。