〝憐憫〟の情が突き動かすもの 『密使』 グレアム・グリーン著/青木雄造訳

早川書房

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 グレアム・グリーンの作品は、文学性の高い〝ノベル〟と、スリラーやサスペンスを軸とした〝エンターテイメント〟の二つに分けられる。1939年に発表された『密使』は、『スタンブール特急』(1932年)、『拳銃売ります』(36年)、『恐怖省』(43年)とともに、後者に属する作品である。

 物語は、ヨーロッパの某国(訳者の青木雄造は、当時のヨーロッパの社会情勢から、スペインかチェコスロバキアだと推定している)から、イギリスでの石炭買付けという密命を帯びた中年男性のDが、黄昏どきのドーバーへ上陸するところから始まる。祖国の内乱と荒廃で妻を殺害され、自身も投獄の憂き目にあったDはロンドンにおいても、彼の石炭買付けを阻止しようとする敵組織をはじめ、味方からも裏切られ、孤立無援の状態に陥る。唯一、ホテルのメイドの少女が彼に献身的に尽くしてくれたのだが、その彼女も何者かによって殺されてしまう。激しい憤りを覚えたDは、殺した相手に復讐するため、それまでの追われる側から、敵を追う側へと立場を変える。

 善と悪、愛と憎、追う立場と追われる立場(物理的な位置関係だけでなく、精神的なものを含めて)など、人の心の内にある対極の感情。その境界を越えさせる力、即ち、悪から善、憎しみから愛、追われる立場から追う立場へと人を転じさせるものを、グリーンは自身のカトリシズム精神に基づき〝憐憫〟の感情だと考えていた。Dが「追われる立場」から「追う立場」に転じるのも、正しく少女に対する憐憫からである。

 立場の転換は、特に犯罪や戦争という状況下で発現しやすい。作品が発表されたのはナチスの脅威がヨーロッパを席巻し、現実がスリラーを追い越していた時代だった。訳者は「あとがき」で「(そうした)テンポの速いさまざまな政治的、社会的事件、暴力、残酷、恐怖にみちた、もっともアクチュアルな世界を描く小説形式としてスリラーがもっとも適していることを(グリーンは)発見した」(括弧内は筆者補記)と説明している。そのため、グリーンはしばしばスリラー(スパイ小説)という形で、この対極ある感情や立場の転換を描いた。ただし、〝エンターテイメント〟といっても、我が国で言う娯楽小説とはニュアンスが異なる。〝ノベル〟との違いは、スリラーやサスペンス的な要素の濃淡にすぎない。だから、スパイ小説であっても、彼の作品は文学性が高い。

 後年、グリーンは彼の最高傑作と評される、もはや文学と言ってもよいスパイ小説、『ヒューマン・ファクター』(1978年)を発表するが、既に戦前のこの頃から、その萌芽があったといえよう。