冷戦時代を語るスパイ小説の金字塔 『寒い国から帰ってきたスパイ』 ジョン・ル・カレ著/宇野利泰訳

ハヤカワ文庫

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 ベルリンの壁が崩壊してから37年あまり。かつて冷戦時代、この壁を挟んで東西両陣営のスパイたちが暗躍し、創作の世界においても、この壁を舞台に数多くのスパイ小説が発表された。中でも本作品は、その嚆矢であり、最高傑作と言われている。

 アレックス・リーマスは、ベルリンにおける英国秘密情報部の現地責任者だったが、東ドイツ敵対諜報部の凄腕副長官ムントによって、リーマスが指揮していた現地工作員が次々と逮捕されたことから、イギリスへ呼び戻され閑職に追いやられた。リーマスは酒に溺れてお金や時間にもルーズになり、やがて追われるようにして職場を去る。その後、職を転々とするがどれも続かず、彼の人生は転落していく。挙句の果て、食料品店の店主に暴行をはたらき、刑務所へ入れられる始末。出所後、東側の組織が多額の報酬と引き換えに、「西側の情報を売らないか」とリーマスに接触してきた。身を持ち崩していた彼は、その誘いにのる。だが、これはムントの失脚を謀る英国秘密情報部の巧妙な偽装工作だった。

 1963年に本作品が発表されるや、たちまちベストセラーになった。当時、人気を博していた007シリーズのような超人的なスパイ・ヒーローが活躍する小説とは異なり、現実のシリアスなスパイの世界を描いたところに、この作品の目新しさがあった。なるほど、モームの『アシェンデン』や、アンブラーの『あるスパイの墓碑名』などもリアルなスパイ小説であるが、それらは登場人物個人に視点を据えたものだった。それに対して本作品は、諜報機関がより巨大化、組織化された冷戦時代を背景に、組織が企てる深遠な陰謀と、それに巻き込まれる個人の悲劇を、より巨視的な視点で描いたものであり、その後の冷戦時代におけるスパイ小説のあり方に大きな影響を与えたのである。

 ベルリンの壁が造られた1961年、ル・カレは、当時、外交官として西ドイツのボンに駐在しており、壁が築かれるのをリアルタイムで見ていた。そして、この時のショックをそのまま読者に伝えようとして本作品を執筆したという。訳者(宇野利泰)の「あとがき」によれば、ル・カレはこの作品を通じて、「個人はいかなる思想よりも価値の高い存在という西欧デモクラシー体制の防御のために、意識的にその主義を放棄した人々の群像を描こうとした」と、その心情をサンデー・テレグラフ誌に文章で寄せている。〝意識的にその主義を放棄した人々〟とは、言うまでもなく、リーマスらのことである。彼らは個人を尊重する体制を守らんがため、およそ個人の尊重とは無縁な非情なスパイの世界―それゆえ、多くは悲劇的な結末を迎える―に身を置き、国家のために尽くしたのである。

 壁がもたらした悲劇を象徴するラストシーンは、冷戦が終焉した現代も読む者の心を激しく揺さぶる。冷戦時代を語るスパイ小説の金字塔といえよう。