インドを舞台とした少年スパイの冒険物語 『少年キム』 ラドヤード・キプリング著/斉藤兆史訳

ちくま文庫

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 冷戦時代、西側社会を震撼させた二重スパイ、キム・フィルビー。韓国系イギリス人を思わす名前は本名ではなく、正式名はハロルド・エイドリアン・ラッセル・フィルビーといった。手嶋龍一の『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師』(2016年 マガジンハウス)によれば、イギリスの植民地、インドのラホールで行政官をしていたシンジャン・フィルビーが、『少年キム』の主人公にあやかって息子を〝キム〟と呼び、以後、この呼び名が息子の生涯の通称になったという。

 『少年キム』は、『ジャングルブック』で知られるイギリス人作家・詩人のラドヤード・キプリングが1901年に発表した冒険小説。インド大陸の東西を結ぶ大幹道の並木道やチベット山脈の雄大な山麓などインドの豊かな大自然を舞台に、あらゆるカーストの人物が登場する「インドを描いた英文学の最高傑作」(訳者解説)と評される作品である。

 十九世紀末のイギリス領インド。現地の子どもたちと同じような姿恰好で彼らとともに、ラホールの路地裏を駆け回っていたイギリス人孤児のキム。物語はキムがラマの老僧と出会い、彼の弟子となって伝説の聖河を探す旅に同行することから始まる。

 当時、南下政策をとるロシアがイギリスの国力を支えるインドを脅かしていた。このため、インドと国境を接する周辺諸国では、イギリスとロシアとの間で熾烈な諜報戦、いゆゆる〝グレートゲーム(闇戦争)〟が繰り広げられていた。アラブ人のマハブブ・アリも馬商を隠れ蓑にしながら英国秘密情報部のために働くスパイだったが、敵国に顔が割れたため、命を狙われていた。そこで彼の後任として白羽の矢が立ったのがキムだった。現地の言葉を自在に操り、目端が利くキムはスパイとして打ってつけの資質を具えていた。

 キプリングはイギリス人で初めてノーベル文学賞を受賞した作家だが、後生の評価はそれほど高くはない。それは、この作品が帝国主義のレッテルを貼られたからだ。確かに文中にはアジア人を蔑視したような表現(例えば、「英国人というものは東洋人と親しくしないのがつねである」など)がみられる。しかし、これは当時のイギリス人の一般的な感覚を説明したものである。むしろ、訳者が解説で指摘しているように、キプリングは少年キムを「多様な人種・民族・宗教が融合する行動原理」の象徴として描いており、彼を帝国主義者だと捉えるは誤りであろう。そればかりか、肉体を離れた精神の自由や輪廻思想を語る老ラマ僧の姿を通じて、物語の幕が閉じられていることからみても、キプリングは東洋の仏教的思想に間違いなく共感していたと思われる。

 さて、自分の息子が少年キムのように育ってほしいと願ったシンジャン・フィルビー。後年、息子が少年キムをも凌ぐ稀代のスパイになることを、果たして想像し得ただろうか。