スパイの秘密道具『忘却へのパスポート』ジェイムズ・リーサー著/向後英一訳

ハヤカワ・ポケット・ミステリ

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 スパイ小説の楽しみの一つは、スパイが用いる数々の秘密道具だ。スーツの袖に隠れる超小型カメラや万年筆型のピストルなど、いかにもスパイが使用しそうな秘密めいたところが、読者の少年心をくすぐる。1964年に発表された『忘却へのパスポート』も、そうしたスパイの秘密道具の魅力が満喫できる作品である。

〝K〟というスパイがテヘランで消息を絶った。英国秘密情報部のマクギリヴレーはKの生死を確かめるため、サマセット州で開業医をしていたジェームズ・ラブを訪ね、テヘランへ行って欲しいと依頼する。ジョージ・ブレイクというソビエトのモグラによって、中近東におけるイギリスのスパイ網が壊滅してしまったため、マクギリヴレーには信頼できる職業(プロ)スパイの手持ちがなかった。そこで、彼は第二次世界大戦中、インドのある野戦基地で、当時、軍情報部大佐だった自分の命を受け、基地内に潜むインド人スパイの摘発に一役買ったラブのことを思い出し、その素質を見込んで、ラブに白羽の矢を立てたのだ。ちょうど、テヘランでは<国際マラリア会議>が開催されており、医者であるラブが出席しても怪しまれることはない。しかし、テヘラン駐在のソビエト・スパイのシミアスは、あることから学会に参加しているラブがマクギリヴレーの送り込んだスパイであることを突き止め、医師団が現地の遺跡を観光している機会を狙って、彼を拉致した。

 ラブはロンドンを発つ前にマクギリヴレーから秘密道具―針が飛び出す万年筆、敵の目を眩ませるマグネシウムの粉が噴き出す指輪、発信機付きの腕時計、歯に詰めた超小型トランジスタなど―を渡されていた。モスクワへ向かう飛行機に無理やり乗せられたラブは、これらの道具を使ってどうやって、この窮地を切り抜けるのか? これが作品の見どころであるが、科学的に理に適った方法が用いられているので、読者は納得がいく。

 スパイの秘密道具は、冷戦時代、実際にCIAやKGBも、たとえばタバコ箱型のピストルや革靴の底に隠された無線送信機など、事実は小説より奇なりといえるようなものを開発し、使用していた。21世紀に入ってスマートフォンが登場し、これ一台で―さすがにピストルの機能はないが―ほとんどのことができるようになると、秘密道具もスマート化(見かけのスマートさと、IT機能の両方)されてしまった。

 しかし、ドラえもんのひみつ道具には、いくら社会がデジタル化しても、スマート機器の類はない。ブラックボックス化した小さな小箱では、道具としての機能が見えないからだ。同じようにスパイの秘密道具も、現実はさておき、少なくとも、小説や映画の世界では、冷戦時代のような、どこか胡散臭さのあるアナログの道具を駆使して欲しい。スパイ小説における秘密道具は、ある意味、ドラえもんにおけるひみつ道具なのだから。