江戸川乱歩が見直したスパイ小説 『恐怖の背景』 エリック・アンブラー著/平井イサク訳

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 エリック・アンブラーのデビュー作は、1936年に発表された『暗い国境』だが、これはそれまで主流だった冒険活劇型スパイ小説のパロディー的色彩が濃い作品である。巨大資本が陰で糸を引く、国際的な陰謀に巻き込まれた市井人の恐怖を描いたアンブラーらしい作品の誕生は、翌年に発表された『恐怖の背景』からだといってもよい。

 第二次世界大戦直前のヨーロッパ。ドイツ、イタリア、スペインなど各国でファシズムが勢いを増していた。新聞記者のケントンは、オーストリアのリンツ行きの列車で同席したザッハスと名乗る男から、有価証券が入っている封筒をリンツのホテルへ届けて欲しいと頼まれる。指定されたホテルの部屋へ行くと、胸に短剣を刺されたザッハスの死体が横たわっていた。ケントンは殺人犯として警察から追われる身となるが、同時にこの封筒を手に入れようとする、ある組織からも追われることになる。

 実はケントンが預かったのは有価証券ではなく、ソビエトの軍事情報だった。それは、もしルーマニアが攻撃を仕掛けてきた場合のソビエトの防衛計画であるが、あくまでも備えのための計画だった。しかし、これが、もしルーマニアのファシストグループの手に渡ると、彼らはこれを利用して、ソビエトが攻め込んでくると喧伝し、ドイツと同盟を結ぶことになる。それは、ルーマニアでの石油権益を有利に運びたいパン=ユーラシア石油会社の望むところだった。このため、同社はこの書類を手に入れるため、スパイ団を雇ったのである。窮地に陥ったケントンは、ソビエトの特務機関員(軍の諜報部門に所属するスパイ、工作員)であるアンドレアスとその妹のタマラによって助けられる。そして、この兄妹と協力して、スパイ団に奪われた機密書類を奪い返すため、チェコスロバキアへ向かう。

 1930年代は知識人の間で共産主義への期待感が広がっていた時期であり、反ファシスト主義だったアンブラーは、ソビエトをナチスに対抗し得る唯一の国とみなしていた。このため、本作品でも同国を盟友として描いている。後年、国民や東欧諸国を恐怖と力で抑えつけ、西側諸国と激しく対立し、冷戦状態になるソビエトを、さすがのアンブラーも、この頃は想像すらしていなかっただろう。

 アンブラー以前のスパイ小説は、荒唐無稽な冒険活劇的なものだったため、江戸川乱歩はスパイ小説に見向きもしなかった。しかし、「第二次世界大戦頃から出現した文学的に優れたスパイ小説の新たな潮流」について論じているアントニー・バウチャー(195060年代に活躍したアメリカを代表するミステリ評論家)の評論を読み、乱歩は大変な見落としをしていたと、巻末の解説で白状している。そして、その潮流の栄えある先駆的な作品として、本作品を挙げているのである。