ハードボイルド小説の巨匠の処女作 『暗いトンネル』 ロス・マクドナルド著/菊池 光訳

創元推理文庫

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 本作品は『動く標的』など、私立探偵リュウ・アーチャー・シリーズでその名を知られたハードボイルド小説の巨匠、ロス・マクドナルドが1944年に発表した処女作である。

 主人公のボブ・ブランチはミッドウエスタン大学の文学部の助教授。学内の予備役将校訓練計画などを検討する戦時委員会のメンバーでもある。ある日、彼は委員会の議長をしている友人のアレック・ジャッドから、委員会の情報が外部に漏れていると聞かされた。

 証拠を掴むため、夜遅くまで大学に残って内偵していたアレックは、ある夜、ついに証拠を見つけたとボブの家に電話をかけてきた。しかし、電話は不自然に途切れる。心配になったボブはアレックに会うため大学へ向ったが、文学部の校舎前に来た時、5階のアレックの部屋に灯りがつき、一人の男が落下するのを目撃した。地面に叩きつけられ、横たわっていたのはアレックだった。戦時委員会の中にナチスのスパイがいて、そいつが証拠を見つけたアレックを殺害したのか? 偶然にも、委員会のメンバーであるドイツ文学部長のシュナイダー教授のもとに、6年前にミュンヘンで別れた、かつてのボブの恋人だったドイツ人女性、ルースが来ているという。事件に何か関係しているのだろうか?

 後年『ギャルトン事件』(1959年)、『ウィチャリー家の女』(61年)、『さむけ』(64年)などで、エディプス・コンプレックス、父親探し、家庭崩壊といった深刻なテーマを取り上げ、アメリカ社会に潜む病巣を浮かび上がらせた、重厚で文学的なハードボイルド小説を執筆したロス・マクドナルドであるが、処女作は、そうした作品群とは異なるスパイ小説である。

 作品が執筆された1944年のアメリカ国民の関心事は戦争であり、最大の敵はドイツと日本だった。作者の関心もエディプス・コンプレックスや家族より、敵国だったとしても不思議ではない。また、訳者「あとがき」によれば、この時期、彼はミシガン大学で研究生活を送っていたのだが、作品のヒントになったようなことを実際に体験したらしい。

 本作品から敢えて後年の片鱗を窺うとしたら、プロットとトリックの卓越性だろう。ロス・マクドナルドはハメットやチャンドラーなどに比べて、プロットや結末の意外性を重視した作家である。本作品でも意表を突いた見事なトリックが用意されている。

 ただし、タイトルの『暗いトンネル』(原題はThe dark tunnel)の由来にもなっている、エンディングの抽象的な文章には感心できない。訳者が「あとがき」で「ロス・マクドナルドはその後27年間に非常に成長を続けてきた」と指摘するように、処女作は小説の出来としては稚拙な部分が残る。それゆえ、後年の巨匠へと成長する作家のスタート地点を知る意味で、ロス・マクドナルド・ファンならば、是非、読んでおきたい一冊だ。