エリック・アンブラーの処女作 『暗い国境』エリック・アンブラー著/菊池 光訳

創元推理文庫

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 イギリスの物理学者、バーストゥ教授は医者から勧められて静養するため、車でイギリス南西部のコーンウォールへ向かった。途中、昼食をとるために立ち寄ったホテルで、兵器会社の役員をしているサイモン・グルームと名乗る男から声をかけられる。イクサニアという東欧の小国(ミステリ研究家の直井 明は『スパイ小説の背景』〔論創社〕で、地理的な位置、地形、風物、当時の内政状況から、ブルガリアがモデルであると推察している)で密かに研究されている原子爆弾の情報を同社が入手した際、社の技術顧問として協力して欲しいというのだ。原子力をそのような兵器に利用することは科学者の良心が許さず、バーストゥ教授はその申し出を断った。そして、サイモンが去った後、ホテルのソファーに置いてあった、誰かの読みさしの『Y機関員コンウェイ・カラザス』を手にする。人並み外れた知力と身体能力で敵と戦うコンウェイ・カラザスの活躍に、しばし現実を忘れた。その後、バーストゥ教授はホテルを出発したが、山道で運転を誤り、車を土手にぶつけて頭を打つ。気がついた時、彼の体にコンウェイ・カラザスの人格が乗り移っていた。抜群の行動力を得たバーストゥ教授は、原子爆弾の開発を阻止するため、イクサニアへ向う…。

 本作品は1936年に発表された〝近代スパイ小説の父〟エリック・アンブラーの処女作である。メタフィクションの『Y機関員コンウェイ・カラザス』さながらの冒険活劇であるので、後年の彼の作品に比べると、かなり異質だ。おそらくアンブラーは、当時、流行っていた冒険活劇型スパイ小説―並み外れた能力を持つスパイ・ヒーローによる非現実的な活躍―を皮肉ったのかもしれない。事実、訳者の菊地 光による「あとがき」や『スパイ小説の背景』でも、本作はパロディーとして書かれたものであろうと指摘している。ちょうど、セルバンテスが17世紀に流行していた騎士道物語をパロディー化して、『ドン・キホーテ』を著したのと同じように。

 一般に処女作は、作家が終生追い求めたモチーフが凝縮されていると言われる。イクサニアの政治の実権を握っている美人で頭の切れる伯爵夫人、青年農民党による革命運動、戦争を道具として裏から世界を動かす武器商人の存在など、後年のアンブラーのスパイ小説にみられる国際的な陰謀・謀略というモチーフの片鱗が、既に本作品からも窺える。

 クライマックスは国境へ抜ける暗い山道を、メルセデスを駆って国外へ逃亡しようとする伯爵夫人と、その後を、谷間に見え隠れするメルセデスの尾灯をたよりに、バーストゥ教授らが車で追う場面である。〝暗い国境〟というタイトルは、文字通りの意味であるとともに、本作品が書かれた時代に思い巡らすと、ナチス・ドイツがヨーロッパを蹂躙し、国境が塗り替えられる暗い時代へと向かうことを暗示しているようにも思える。