無政府主義結社に潜入した秘密警察のスパイ 『木曜日だった男』 G・K・チェスタトン著/南條竹則訳

光文社古典新訳文庫

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 G・K・チェスタトンといえば、ブラウン神父シリーズのミステリでお馴染みだが、本作品はチェスタトンの数少ない長編小説の一つであり、しかもスパイ小説である。

 物語は、真っ赤な夕日に染まるロンドンのサフラン・パークを詩人のサイムが訪れるところから始まる。サイムは、あらゆる因習を撤廃し破壊することが芸術だと唱える無政府主義者のグレゴリーの演説を聴き、逆に物事がうまく機能する秩序こそが芸術だと反論する。それが機縁となって、サイムはグレゴリーに誘われて、〝日曜日〟を首魁とする各曜日名をもつ男たちが集まる無政府主義結社の集会に参加し、欠員だった〝木曜日〟に任命される。しかし、サイムは実は無政府主義者を内定する秘密警察の刑事だった……

 確かに一見、スパイ小説風だが、その後の非現実的な展開や登場人物たちが交わす無政府主義についての観念的な議論をみると、この作品をスパイ小説と呼ぶのが躊躇われる。

 チェスタトンがこの不可思議な作品で描こうとしたのは、彼が親友のE・C・ベントリー(本格ミステリの古典『トレント最後の事件』の作者でもある)に捧げた序文の詩から読み解くことができる。「雲が人日の心にかかり、空が泣いていた」という一文で始まるこの詩は、訳者の南條竹則の解説によれば、次のようなことを表しているらしい。

 産業革命や近代科学によって、キリスト教の盤石の礎が揺らぎ始めると、人々はそれに代わる新たな精神的な拠り所を求めた。その結果、科学主義や無政府主義など、様々な考えが生まれたが、どれも人々の不安を払拭し得ず、結局は正統派キリスト教に根差した秩序や道徳観こそが安寧をもたらす、というものだ。

 チェスタトンは、このことを語るため、本作品を書いたのだが、作品が発表された頃(1908年)には、ドグマにすぎなかった無政府主義は急進的な革命思想に潮流が変わり、その信奉者たちが、しばしば街角で爆弾テロを起こしていた。コンラッドは、そうした彼らの内面の論理と外面に現れた行動との間の(ひずみ)を『密偵』(1907年)で描いた。一方、チェスタトンは、無政府主義者の信奉者にインテリが多いことから、なぜ彼らがそれに惹かれるのか理由を探るため、スパイ小説風に、主人公を無政府主義集団へ潜り込ませる。

 その結果、主人公は悪夢のような混沌とした世界で翻弄されるのだが、エンディングは、一転して、静謐で穏やかな世界に戻って幕が閉じられる。それは、理想と現実の乖離に懊悩し、過激な思想にかぶれやすい青春期の者が、社会経験を積み、生活基盤を築くことによって、秩序と道徳に支えられた社会に安寧を見出すことの隠喩ではあるまいか。

 世の中を狭窄的な視野で思弁的に捉えると、過激な思想や、それを唱える者に惹かれる。『木曜日だった男』は、現在にも通じる普遍的な作品と言えよう。