ジョージ・スマイリーというスパイ・ヒーロー 『死者にかかってきた電話』 ジョン・ル・カレ著/宇野利泰訳

ハヤカワ文庫

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 外交官のサムエル・フェナンが自殺した。かつて彼が共産党のシンパだったというタレコミが寄せられたので、その真偽を確かめるため、英国秘密情報部のジョージ・スマイリーは彼を尋問した。しかし、疑うほどのことはなく、その旨も彼に伝えた。それにも関らずフェナンは自殺した。釈然としないものを感じながら、亡くなる前の様子を知るため、スマイリーは彼の妻、エルサを訪ねる。そのとき偶然にも、生前、フェナンが電話局に頼んでいたモーニングコールの電話がかかってきた。自殺する人間がモーニングコールなどを頼むだろうか? 彼の自殺に疑念を抱いたスマイリーは調査を始める。その結果、浮かび上がってきたのは東ドイツ諜報部の不気味な影だった。

 本作品はスパイ小説の巨匠、ジョン・ル・カレが1961年に発表した処女作であるとともに、彼が創作した稀代のスパイ・ヒーロー、ジョージ・スマイリーの記念すべきデビュー作でもある。背が低く、ずんくりとして風采はあがらないが、きわめて明晰な頭脳と冷静沈着で鋭い観察力をもったベテランの情報部員。しかし、若い男と駆け落ちした美しい妻、レディ・アンのことになると冷静でいられなくなってしまう……。そんな彼の人となりが第1章の「ジョージ・スマイリーの略歴」で詳しく述べられている。

 本作品が発表された当時、最も人気があったスパイ小説は、イアン・フレミングの007シリーズだった。しかし、キム・フィルビー事件が起こる直前の〝同僚間での絶え間ない疑惑の震動が肌で感じられた〟(アンソニー・マスターズ著『スパイだったスパイ小説家たち』1987年)50年代後半から60年代前半の英国秘密情報部で勤務していたル・カレにとって、大英帝国はもはや幻想にすぎず、いまだに過去の強きイギリスを体現しているかのような、ジェームズ・ボンドのスーパーマン的な活躍ぶりに違和感を覚えたという。また、詐欺師だった父親のせいで、転校を繰り返さざるを得なかった少年時代のル・カレにとって、生きるすべは目立たず周りを冷静に観察することだった。そんな彼の経験が、ジェームズ・ボンドと対極をなす人物をつくり上げたとしても不思議ではない。

 一般に処女作は作家が終生、描こうとしたモチーフが凝縮されていると言われる。本作品でスマイリーは「この男(敵)が過去よりも、さらに力強く支持している主義を憎んだ。それは大衆のためと称して、個人の尊厳を蹂躙してかえりみない」(訳者。括弧内は筆者)と、自分の心の内を顧みている。言うまでもなく、その主義とは共産主義のことだ。個人はいかなる思想、主義よりも価値あるものと考えていたル・カレは、それを守るため、影の世界で戦う男たちの姿を『寒い国から帰ってきたスパイ』やスマイリー3部作を通じて描いていく。『死者にかかってきた電話』は、それらの原点となる作品である。