創元推理文庫
日本人とって、アイスランドは北極圏に近い小さな島国というくらいの印象しかない、馴染みのない国である。この国が世界的に注目を集めたのは、中距離核兵器削減に向けて、1986年10月、首都レイキャビクで行われたレーガンとゴルバチョフの歴史的会談だ。それまでアイスランドが軍隊を持たない国だということすら、殆の人は知らなかっただろう。軍隊を持たない代わりに、米軍の基地が置かれ、冷戦時代は対ソ戦略の重要な拠点だった。それゆえ、当時は同国の米軍基地の動きを探るため、東側のスパイが暗躍していた。
物語は干上がった湖底から白骨死体が発見されるところからはじまる。死体には冷戦時代に旧ソビエトで作られていた諜報用の無線連絡機が、重石として縛りつけられていた。捜査にあたるのは、『湿地』(2000年)、『緑衣の女』(2001年)、『声』(2002年)でお馴染みのレイキャビクの犯罪捜査官エーレンデュル。これまの作品と同様、丹念で粘り強い捜査によって、事件に関係する人物の過去の人生を掘り起こしていく。
エーレンデュルはお洒落に無頓着な冴えない中年男。離婚して一人暮らし。仕事にかまけていたためか、娘は薬物依存症に陥っている。彼をはじめ彼の仕事仲間も、皆、それぞれ私生活に何らかの屈託を抱えており、そ うしたことが作品に奥行きを与え、読者に支持されている。
捜査の結果、1970年代に農業器具のセールスマンが婚約者を残して突如、失踪したこと、男の名前は偽名で、公的記録が一切ないことが分かった。いったい、この男は何者なのか? 物語はエーレンデュルたちの捜査と、1950年代にアイスランドから東ドイツのライプツィヒ大学へ留学していたトーマスという男の追想が交互に織りなすように展開する。
社会主義の理想を信奉していた留学生たち。しかし、彼らが東ドイツで見たのは、理想とは裏腹の相互監視と密告が奨励され、自由な行動が抑圧された全体主義国家だった。「あの国の社会主義はナチズムの新しい形にすぎない」というトーマスの台詞が印象的である。本作品は、そうした全体主義国家、密告社会の下でスパイになった男と、その犠牲になった男の哀しい物語である。
作者のアーナルデュル・インドリダンは、北欧ミステリで最も権威がある「ガラスの鍵」賞を二年連続受賞する他、英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞、マルティン・ベック賞など、数々のミステリ関係の文学賞を受賞している、今や故国アイスランドのみならず、北欧ミステリ界全体を牽引する第一人者である。本作品においても2008年のヨーロッパ・ミステリ賞、2009年のバリー賞・長編賞を受賞している。
いわゆるスパイ小説ではないが、冷戦時代の東側社会の実態(それは今日のロシアや中国にも当て嵌まる)に興味を持つ人には、是非とも読んでほしい一冊だ。