スパイの生々しい息づかい 『潜入―モサド・エージェント』エフタ・ライチャー・アティル著 /山中朝晶訳

ハヤカワ文庫

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 邦題から想像するのは、世界最強といわれるイスラエルの諜報機関、〝モサド〟の刺激的でスリリングなミッションであろう。しかし、作品の原題はThe English Teacherという地味で、人目を引かないタイトル。だが、このタイトルが普通の市民を装って、敵国に潜入するスパイの実態を描いた本作品の本質をよく表している。

 「父が死んだわ。父が死んだのはこれで二度目よ」―かつて、カナダ人の英語教師を装って敵国のアラブ某国に潜入し、数々の成果を上げたモサドの元女性諜報員、レイチェルが、この言葉を残して姿をくらました。もし、彼女が機密を漏らせば、国家に重大な危機をもたらす。すぐさまモサド本部は、彼女を探し出して拘束するため、組織を挙げて捜査を開始した。既に引退していた彼女の工作担当官(ケースオフィサー)だったエフードも本部に呼び出された。エフードはレイチェルの失踪の謎を解く鍵は、彼女がこれまで携わってきた任務の中にあると考えた。物語は、エフードがかつての上司へ語るレイチェルに関する回想と、レイチェルの視点で描かれた当時の彼女自身の任務が、交互に重なり合いながら展開する。

 2013年に発表された本作品は、元イスラエル国防軍情報部准将、エフタ・ライチャー・アティルが自身の経験を元に描いた、同国でベストセラーになったスパイ小説である。出版に際して、何カ月もの間、当局に留め置かれ、夥しい修正や削除を強いられたという。作者は軍にいたとき、実際に諜報員を何人も敵国に送り込んでおり、その時に抱いた「(彼らが)何ヶ月も、あるいは何年も敵の真っただ中で生活を営むというのは、いかなることなのか」(山中朝晶訳)という疑問に答えを出すため、この物語を書いたとのことだ。

 作品では軍事施設に関する機密情報の入手、元ナチスのドイツ人化学者暗殺、PLOの秘密拠点爆破など、レイチェルが携わったミッションが描かれているが、そこには派手なアクションシーンはない。描かれているのは、たった一人で敵国に潜入した時の孤独感、任務を目の前にした時の胃が締めつけられそうになる緊張感、偽りの身とはいえ、これまで築いてきた人間関係を、誰にも何も告げず、突然絶ち切って任地を立ち去る時の寂寥感などである。ここまでスパイの生々しい息づかいを感じさせる作品は、滅多にない。

 さらに、本作品を小説として深みのあるものにしているのは、レイチェルに対するエフードの秘かな想いである。しかし、それは叶えられない。なぜならレイチェには命を賭して愛した男性が別にいたからだ。そして、そこに彼女の失踪の真相が隠されていたのだ。

 周囲を敵国に囲まれたイスラエルにとって、敵の情報をいち早く知ることが存続する術だ。今も、人知れず敵国に潜入し、いつ秘密警察がドアをノックするかもしれない不安にさいなまれながら、ホテルの一室で一人、夜をすごしている諜報員がいるに違いない。