東西ベルリン市民の切なる願い 『白い壁の越境者』J・M・ジンメル著/中西和雄 訳

祥伝社

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 ベルリンの壁を越えて西側へ脱出するスパイ小説といえば、ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』が有名だが、脱出する方法は何も壁を乗り越えるばかりではない。本作品は、地下トンネルを通って東側から西側へ脱出するスパイ小説である。

 1964813日、ベルリンの壁が出来てちょうど3年目にあたるこの日、市民のデモ行進に備えて、東ベルリンの目抜き通りは人民警察によって厳重に警備されていた。その分、警備が手薄になった目抜き通りから外れたモットル通りでは、この日の晩、とある民家の裏庭から、西ベルリンのある洗濯屋の地下室に通じる長さ140メートルのトンネルを通って、113名もの東ドイツ市民が西側へ脱出した。最後に脱出したのが、アザラシを彷彿させる丸顔と派手な身なりをした40代の紳士、ブルーノ・クノレだった。

 ブルーノは銀行強盗でブランデンブルク刑務所に収監されていたが、残りの刑期の免除と引き換えに、西側への亡命者を装って西ベルリンに潜入し、ある人物を誘拐して東ベルリンへ連れ戻してくる命令を受けていた。しかし、銀行強盗に手を染めはしたが、暴力を厭う彼は千載一遇のこのチャンスを利用して、そのまま本当に亡命しようする……

 視点のぶれ、読者に対する語りかけ、現実離れした哲学的で冗長な会話など、小説としての出来栄えは、ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンなどの作品に比べて見劣りする。しかし、戦後、西ドイツで翻訳家や新聞記者をしていた作者だけあって、冷戦当時の東西ベルリンの街の様子や市民感情が、匂いまで漂ってきそうな臨場感をもって描かれている。

 特に東ドイツで犯した犯罪が、西ドイツでも罰せられることに不満を訴えるブルーノに対して、ミュンヘン警察署の捜査官が「もし、われわれがあなたを起訴しないとしたら、二つのドイツを認めたことになる」と語っているのが印象的である。また、双頭(東と西に分かれたドイツを象徴していることは、言わずもがなでる)の奇形亀から生まれた子亀が動かなくなっているのを見て嘆く少年に対して、母親が「そのうちみんなよくなるよ。ただ辛抱するんだよ」と自分に言い聞かせるように語っている。当時の東西ベルリン市民の心の内を垣間見ることができる場面である。

 作者のヨハネス・マリオ・ジンメルの作品は、我が国では、若い銀行マンの主人公がナチスのスパイ戦に巻き込まれる『白い国籍のスパイ』(1960年)で有名だ。流血を嫌う主人公、個性的な登場人物たち、緊迫した状況を描いたスパイ小説でありながら、どこかユーモラスな味わいのある作風は、この作家ならではのものであろう。

 本作品が発表されたのは一九六五年。それから24年後の1989年、ベルリン市民の辛抱の甲斐が叶って、ベルリンの壁は崩壊した。