ラオウル・ヴッレンベリイへの鎮魂歌 『裏切りへの七歩』 マイケル・ハートランド著/佐和 誠訳

ハヤカワ文庫

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 ウィーン駐在のイギリス国連大使のウィリアム・ケーブルは帰宅したとき、KGBに拉致され、東欧のある国を標的にした西側の機密作戦を探り出せと脅かされる。拒否すれば、彼の過去のある秘密を暴露するという。しかも、愛娘のサラが人質にとられている……

 本作品は、『スパイは黄昏に帰る』(1983年)で好評を博したマイケル・ハートランドの第二作目である。訳者(佐和誠)「あとがき」によれば、作者はケンブリッジ・クライストカレッジ卒業後、外交官として、78年から5年間、ウィーンに赴任していたらしい。作品にはそんな彼の体験が色濃く反映されている。特に冒頭のオーストリアとハンガリーをまたぐノイジードーラ湖の描写は秀逸。「湖のほとんどはオーストリア領内にある。しかし、(中略)その見えざる国境線のかなたにはヨットもなければ、明るい色のテントもない。岸沿い500メートルごとに黒い監視塔が立つだけだ」という文章は、その場にいた者でしか描けない臨場感があり、華やかな西側社会と対称をなす東側(共産)社会の暗さ(ある意味、「怖さ」)を象徴している。

 かつてケーブルは、極めて敏腕な情報部員として将来を嘱望されていた。しかし、ヴェトナムで勤務していたときに、北側に捕らえられ捕虜になったことが経歴に終止符を打った。オックスフォードやケンブリッジを卒業した上流階級の人間が多数を占める秘密情報部内において、労働者階級出身のケーブルは異端児であり、彼の活躍は妬まれていた。そこへ、捕虜になり敵の訊問を受けたことから、たとえ、機密情報を漏らしていなかったとしても、ケーブルの名前に〝?〟が付けられ、情報部での将来が閉ざされてしまったのだ。

 不幸だった結婚生活、愛娘サラへの身を切られるような想い、KGBに脅迫されていることを直ちに保安部に打ち明けるべきなのに、それができない苦しい立場と逮捕への恐怖、さらには恋人のユダヤ人娘ナオミの不信な行動に対する疑念など、主人公、ケーブルの内面が丁寧に描かれ、読者は主人公に感情移入して作品を読むことができるだろう。

 本作品では、ポーランド国内に不安を煽り、反乱を起こさせようとする西側の<ピラニア>作戦が鍵となっているが、その背景には、東欧におけるナチスへの抵抗運動が関係していた。登場人物の一人であるスウェーデン大使のラオウル・ヴッレンベリイは実在の人物。第二次世界大戦中、プダペストに赴任している間、多くのハンガリー系ユダヤ人をナチスの刃から救ったが、戦後、ハンガリーに共産政府を樹立しようとするソ連にとって、親アメリカ派の彼は邪魔者だったので、逮捕され死ぬまで牢獄に入れられていた。

 作者が作品の巻末に『ラオウル・ヴッレンベリイに関する歴史的覚書』と題した一文を載せているのは、ある意味、本作品を彼への鎮魂歌にしたかったのかもしれない。