端倪すべからざるクリスティーの洞察力 『NかMか』 アガサ・クリスティー著/深町眞理子訳 

ハヤカワ文庫

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 ポアロやミス・マープルの陰に隠れてあまり知られていないが、アガサ・クリスティーの作品にはトミーとタンペスというおしどり夫婦が、持ち前の好奇心と行動力で活躍するスパイ小説がある。

 二人はイギリス政府を揺るがす極秘文書消失事件を解決した『秘密機関』(1922年)でデビュー。それから約20年後の1940年の春、ナチス・ドイツが破竹の勢いでヨーロッパを席巻していた。そんなある日、かつての仕事仲間である英国情報局のグラント氏が訪ねてきた。国内に潜入している第五列(敵方に通じている自国内で暮らす集団や住民勢力)を内偵していた情報局員が「NかMか、ソング・スージー」というダイイング・メッセージを残して不審な死を遂げた。「ソング・スージー」とはイギリス南海岸の保養地、リーハンプトンにあるゲストハウス「無憂(サン・)(スーシー)」のこと。グラント氏は、そこを根城にしているNとMという男女の大物スパイの正体を突き止めて欲しいと言う。情報局内部にもスパイが潜入している可能性があるので、部外者でありながら、諜報活動の経験を持つトミーにこの任務を依頼したいと言うのだ。かくして、トミーとタンペスの二人はナチスのスパイが潜む巣窟の中へ飛び込む。

 クリスティーの小説の魅力はプロットと登場人物たち。本作品でも「無憂荘」に滞在する人々相手に威圧感を与える大柄なオールドミス、退役軍人の典型といった元陸軍少佐、自ら〝密輸団の巣窟〟と呼んでいる家に住む海軍中佐、ドイツから亡命してきた青年など、いずれも、一癖も二癖もある登場人物が存在感豊かに描かれている。

 スパイ小説の面白さは二つある。一つ主人公が敵の執拗な追跡から逃れるスリルとサスペンス。もう一つは、「この中の誰がスパイなのか?」というフーダニット型ミステリとしての知的楽しさだ。『NかMか』はその両方を併せ持っている。ただし、シリアスな雰囲気はなく、いかにもクリスティーらしく、どこか牧歌的である。

 NとMが捕まり、警察や軍隊の内部にもスパイが潜んでいることが判明した。しかも、彼らはイギリス人だった。なぜ祖国を裏切るのか? 驚くトミーにグラント氏が応える。

 「(君は)ドイツという国の宣伝力を知らんからだ。そいつは人間の内なるなか、力への欲望ないし願望といったものに働きかけてくる。(中略) どこの国でも、いつ時代でも、これは変わらない」(深町眞理子訳)

 民衆がナチスを支持する中に、ポピュリズムの危険性を見抜いていたクリスティー。今日、世界各国でナショナリズのうねりが高まっているのを見るにつけ、作品が発表された1941年に、既にそのことを看破していた彼女の洞察力に対して、改めて脱帽である。