イスラム過激派の実態を描いたスパイ小説 『フェイスフル・スパイ』 アレックス・ベレンスン著/池 央耿訳

小学館文庫

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 2001年に起こった9・11同時多発テロ以降、スパイ小説の世界も、現実世界を反映し、イスラム過激派が敵役として描かれるようになった。本作品はそれを象徴するスパイ小説であると同時に、複雑なイスラム社会の構図を知る格好のテキストでもある。

 主人公のウェルズはアメリカ人でありながら、ただ一人、アルカイダへの潜入に成功したCIA工作員。アルカイダは、9・11同時多発テロに続いて、あらたにアメリカで大規模テロを行うため、ウェルズをアメリカへ送り込んだ。ウェルズはテロが計画されていることをCIAへ知らせようとするが、CIA上層部は、彼が9・11のとき、何も警告しなかったことから、イスラムに寝返ったと疑っていた。唯一、かつての彼の連絡担当官だったジェニファだけがウェルズを信じてくれていた。CIAの信頼を取り戻すには、テロを阻止することだが、ウェルズにはテロ計画の詳細が知らされていなかった。テロはいつ、どこで行われるのか? それを突き止め、阻むため、ウェルズは孤独な闘いを行う。

 訳者あとがき及びジャーナリストの惠谷 治の解説によれば、本来、イスラム教は穏健で寛容なものだった。ところが、エジプトの原理主義者、アヴドゥルサラーム・ファラグが「理想社会であるイスラム共同体を実現するためには、背教者や異教徒への攻撃は、ジハード(聖戦)として正当化される」と訴え、純真なムスリム(イスラム教徒)の青年や貧困に喘ぐ民衆の心を捉えた。特に1991年の湾岸戦争における多国籍軍の攻撃により、反米感情が一気に高まり、それが9・11同時多発テロを招く結果となった。作品でも「イスラム世界の子供たちが餓えている一方で、世界中の石油を吸い上げて王侯貴族の暮らしをしている」(訳者)アメリカ人を〝糞溜めの豚〟と罵り、〝麻薬や同性愛で堕落した〟異教徒たちを誅戮(ちゅうりく)しようとするアルカイダ幹部の怨念が繰り返し描かれている。

 しかし、ジハードの名のもとに、一般市民まで巻き込む爆弾テロ、可能であれば、放射性物質や細菌兵器を使うことさえ躊躇しない彼らのやり口には、ついていけない。ウェルズが「当時(冷戦時代)はスパイ戦争にも一種の儀礼と品格があった。(中略)自分たちだけに見える三次元の盤上でチェスを指していた。(中略)だが、今は違う。(中略)テロ組織はできることなら世界を爆破しようと本気で考えている」と言っているのが印象的だ。

 作者のアレックス・ベレンスンはジャーナリストとして、実際に米占領下のイラクで現地取材をしている。ジャーナリストならではの客観的な視点で、ムスリムたちの実態を描いた本作品は、2007年度アメリカ探偵作家クラブ・最優秀処女長編賞を受賞した。

 なお、タイトルに付いているfaithfulとは「忠実な」という意味だが、惠谷によれば、同時に古語で「信仰の堅い」という意味も表すようだ。