映画「愛と哀しみのボレロ」を観て想う

 過去の名作映画を映画館の大スクリーンで上映する「午前十時の映画祭」で、先日、「愛と悲しみのボレロ」という作品を観た。

 1930年代から80年代までのベルリン、ニューヨーク、モスクワ、パリを舞台に、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、作曲家グレン・ミラー、舞踏家ルドルフ・ヌレエフ、歌手エディット・ピアフをモデルにした四人の芸術家とその子供たちの波瀾に満ちた人生を描いた、フランス映画の巨匠クロード・ルルーシュ監督による3時間を超える超大作作品だ。ラヴェルのボレロに乗ってバレエ・ダンサーのジョルジュ・ドンが踊るラスト15分は圧巻である。

 この映画のテーマは、冒頭に映し出されるアメリカ人作家ウイラ・ギャザーが語った「人生には二つか三つの物語しかない。しかし、それは何度も繰り返されるのだ。その度ごとに初めてのような残酷さで」というテロップに集約される〝繰り返し〟である。 

 直接、第二次世界大戦を経験した1世代の親たちは当然のことながら、2世代の子どもたちも、それぞれ運命に翻弄され、苦労や悩みを抱えて生きている。

 映画では同じ俳優が一人二役で親子を演じていることもあって、観る者を混乱させがちにするが、子供は親の遺伝子を引き継いでいるので、親と似ているのは当然。筆者には、それが却って〝繰り返し〟に相応しく思われた。

 そして、何より同じ一定のリズムの通低音のもと、二種類の旋律が延々と繰り返される「ボレロ」という楽曲自体が、正に〝繰り返し〟の象徴ではないだろうか。

 映画が公開されたのは1981年。当時の国際情勢を見ると、79年末のソ連によるアフガニスタンヘの軍事介入以来,米ソ関係は更に厳しさを増していた。また、イスラエルが正規の手続きを経ずにイラクの原子炉を爆撃したことから、欧州の西側諸国はこぞってイスラエルを非難。さらに、アメリカでは「強いアメリカ」の再現を掲げ、南部や中西部の農業地帯の白人中産階級から絶大なる支持を集めたロナルド・レーガンが、1月に第40代大統領に就任した。

 それから43年経った2024年。ペレストロイカとソ連崩壊によって、ロシアにも漸く民主化が訪れたかのように思えたが、ウクライナへ侵攻し、政府に楯つく者を容赦なく投獄/暗殺するプーチンによって、ロシアは再びソ連時代へ逆戻りしている。イスラエルのガザ侵攻によって、何の罪もない女性や子供たちが犠牲になり、国際世論はイスラエルを激しく非難している。そして、〝アメリカ・ファースト〟を掲げるドナルド・トランプが、地方の白人労働者階級の圧倒的な支持を得て、再び大統領に返り咲くかもしれない。

 歴史は繰り返しである。「愛と哀しみのボレロ」を見て、そんなことを想った。

書きたくて書けなかった小説

 40歳の頃まで小説家になりたいと思っていた。しかし、仕事をしていると、なかなか書く暇がない。(今では、それが都合の良い言い訳であることがよく分かる。本当に小説を書きたい人は、どんなに時間がなくても、寸暇を惜しんで原稿用紙に向かっているものだ。)

 それでも、仕事の関係で東京へ単身赴任していた1998年~2000年の3年間は、休日に家族サービスもする必要もなく比較的時間があったので、「この間に本腰を入れよう」と、小説の執筆に取り組んだ。

 書きたいと思った小説の題材は、別冊・歴史読本Vol.59『江戸諸藩 役人役職白書』で知った〝狼取り〟のことである。馬産地である南部藩では、藩に献上する馬たちを狼(当時は、まだ日本に狼が棲息していた)から守るため、猟師から選んだ者に俸禄、鉄砲、弾薬を支給して狼害防止対策の任に就かせていたという。

 狼取りを主人公にどんな物語にしようかと色々構想を練り、時には根岸競馬記念公苑にある「馬の博物館」まで足を運んで、我が国の馬の歴史に関する文献を調べたり(当時は、今ほどインターネットで何でも公開されている時代ではなかった)もした。しかし、どうしてもヘミングウェイの『老人と海』や吉村 昭の『熊撃ち』のような、偏屈で頑固者だが、その道の名人と言われる漁(猟)師の主人公と、対象となる動物との孤独な死闘という紋切型になってしまう。登場人物(片方は人間ではないが)もこの二人だけで、小説として拡がりに欠ける。もっと色々な人物を登場させて小説らしくしようとあれこれ考えたが、筆者には「経験したことしか書けない」という小説家志望者にとって致命的な弱点があったので、複数人の人物を舞台の上で廻していくことができない。それどころか、経験したことしか書けないので、主人公である猟師のことも、いざペンを持つと一行も進めない。そんなことがあって、いつしか狼取りのことはおろか、小説を書くという夢もなくなってしまった。

 あれから二十数年経った昨年の11月、角川春樹事務所から発刊された『奥州狼狩奉行始末』(東圭一著)を新聞の書籍広告で知った。筆者が書こうと何度も呻吟して、結局、書くことができなかったことを小説にしている! この東圭一という作家は狼取りのことをどのように料理したのだろうか? 早速、書店で買い求め、むさぼるようにして読んだ。

 これは狼狩を通じて掘り起こされた、主人公の父に起こった非業の死の真相と、その裏に隠された藩の不正の謎を暴く時代ミステリである。〝黒絞り〟という知能、身体力ともに優れた狼の群れの頭目が出てくるが、あくまでも事件のきっかけにすぎない。〝狼狩奉行〟と言うタイトルこそ付いているが、これはレッキとした人間ドラマだ。だからこそ第15回角川春樹小説賞を受賞したのであろう。こういう展開の仕方があったのか、筆者は素直に作者に脱帽した。

最近、ハマっている海外の刑事ドラマ

 最近、二つの海外の刑事ドラマにハマっている。

 一つはNHKで毎週日曜日午後11時から放送の『アストリッドとラファエル 文書係の事件録』)。

 自閉症だが、それゆえの几帳面さ、繊細さ、集中力、抜群の記憶力と論理的思考によって、犯罪資料局の膨大な資料の中かから関係する資料を探し出し、事件の謎を解くアストリッド。一方、少々がさつなところもあるが、おおらかで思いやりがあり、正義感旺盛でついつい警察のルールを逸脱しがちな猪突猛進型のラファエル。正反対の二人がお互いの足りない部分を補い協力し合いながら事件を解決していくフランスミステリーだ。

 アストリッドを演じるサラ・モーテンセンが自閉症を患っている人の特徴(視点の定まらない目、集中するとき指を動かす動作、どこか危なげな所作など)をよく捉えている。 

 このドラマは、主役の二人だけでなく、脇を固める人物たちも魅力的だ。ラファエルにひそかに思いを寄せているニコラ警部。いつもアストリッドに自分の見落としを指摘されるのが小癪だが、彼女の優れた能力を認めている監察医のフルニエ。いつも勝手な行動をするラファエルに手を焼いている上司のバシェール警視正など、それぞれ個性があって存在感がある。

 もう一つのハマっている刑事ドラマは、テレビ大阪で毎週金曜日午後12時45分から放送の『刑事モース ~オックスフォード事件簿~』

 イギリスではシャーロック・ホームズを凌ぐほどの人気を誇る刑事ドラマ『主任警部モース』。彼の若かりし日々を描いたのがオックスフォード事件簿シリーズだ。

 オックスフォード大学で古典文学を学んだモースは成績優秀な奨学生だったが、失恋で大学を中退。その後、陸軍に入隊するが肌に合わず、警察官となってオックスフォードのカーシャル・ニュータウン署に配属された。該博な知識と鋭い観察力、天才的な閃きによって事件の謎を解いていく。しかし一方で妥協知らずで、こだわりが強いため、周りと摩擦を引き起こすこともしばしば。モースの能力を買っている上司のサーズデイ警部補や同僚たちとの関係のなかで、人間的に成長していくところも、このドラマの魅力である。

 モースを演じるショーン・エヴァンスの知的で繊細な感じが、主人公のイメージにピッタリだ。

 舞台は1960年代後半のオックスフォード。落ち着いた街のたたずまいがいかにもイギリス的だ。また車や女性の化粧服装に当時が偲ばれる。特に女性の化粧や服装は、筆者が小学生の頃に見た外国の女優やモデルのそれであり、どことなく懐かしい。

 海外の刑事ドラマは、これまで色々と放送されてきたが、『アストリッドとラファエル 文書係の事件録』と『刑事モース~オックスフォード事件簿~』の二つは、〝謎解き〟が楽しめるドラマだ。筆者にとっては、1970年代に放送されていた「刑事コロンボ」シリーズ以来、久々に毎週の放送が待ち遠しい刑事ドラマである。

スターバックスは週末の書斎

 前回のブログで、スターバックスが筆者の読書スペースの一つであることを述べたが、今回、その理由について述べる。

 スターバックスのコンセプトは、家でも職場でもない「第三の空間」だという。「第三の空間」とは自宅(fast place)や学校、職場(second place)でもない、居心地の良いカフェ等、ゆったりとリラックスできる場所(third place)のこと。

 なるほど、それに見合うようにスターバックスの店内はアース色を基調とした内装や品の良い椅子類、温かみのある暖色系の照明、心地よく自然に耳に入って来るBGMなど、落ち着いたリラックスできる雰囲気がある。

 店内のつくりだけでなく、スタッフもレベルも高い。一般的な飲食店の場合、社員教育に割かれる時間は2~3日だが、スターバックスは実に80時間、約2ヵ月に及ぶという。正に社員教育の賜物。愛想がよく、よく気配りができるスタッフがいてこそ、居心地のよいスペースとなり得る。

 スターバックスといえばスイーツと見まがう様々なフラペチーノが売りであるが、筆者はシンプルなドリップコーヒーを飲むことにしている。独自の培煎方法によって抽出されたコーヒーは、ほどよい苦みと酸味があって美味しい。

 さらに言えば、「at_STARBUCKS_Wi2」という無料で利用できるwi-fiも魅力的だ。プレゼン資料やレポートを作成する際にネット検索は欠かせない。筆者も書評やブログを書くとき、ネット検索をよく行うので、店内でwi-fiが利用できるのはありがたい。

 試験勉強や読書をする場合、自宅だとテレビなどの誘惑がある。そうかと言って図書館は自宅や職場の近くにあるとは限らない。「第三の空間」はそうしたニーズに応えてくれる場所である。

 筆者も自宅にいる場合、ついテレビを見てしまうので、スターバックスのように本を読むしか(あるいは書評やブログを書くしか)しようのない場所というのは貴重だ。しかも、その場所が上に述べたように、落ち着いてゆったりでき、何時間、居続けても嫌な顔をされないので、筆者にとってスターバックスは、正に週末の書斎である。

 ちなみに筆者の職場は肥後橋に近い四ツ橋線沿いにあるので、スターバックスの肥後橋南店をよく利用する。ここはビジネス街にあるため、客もヒジネスマンやОLが多い。週末の同店の2階は資格試験の勉強をしている人が多い。筆者もその中に混じって、今、このブログを書いている。

私の読書空間

 今回は筆者の読書空間について述べる。まずは通勤電車の中。今日、殆どの人はスマホを見ているが、筆者は電車の中でスマホを見るのはLineの返事をするときくらいで、基本には本を読んでいる。毎日、自宅のある郊外の駅から大阪市内の終点の駅まで約20分間の往復が筆者の読書空間である。

 次いで昼休み。たいていの人はパソコンでインターネットを見たり、デスクに顔を伏せて寝たりしているが、電話が掛かってくるのが鬱陶しいことと、気分転換のため、筆者は病院の待合室のような長椅子が並んでいる別のフロアまで行き、そこで本を読んでいる。しかし、食後は生理的に眠くなるので、知らず知らずのうちに眠ってしまっている。ある時、13時を過ぎても気づかずに寝ていたことがあったので、12時50分にアラームが鳴るようスマホの時計をセットしてから読むようにしている。

 帰宅してからは、仕事で疲れているためか、本を読んでいると目がショボショボしてくるので、あまり読まない。それに録画したテレビ番組が溜まっているため、そちらを優先する。録画したものではないオンエア中の番組も、たいして面白くないのに、ついずるずると見てしまい、気が付くと就寝時間になっていることがよくある。その都度、テレビのスイッチを入れなければよかったと後悔し、いっそうのことテレビのない無人島なら、嫌と言う程、本が読めるのにと、訳の分からぬ思いを抱いたりする。

 家で本をあまり読まない代わりに、週末、お気に入りのスターバックスへ行き、そこで、じっくりと腰を据えて長時間、本を読むことにしている。スターバックスが読書空間に適していることは別の機会で述べたいが、ドリップコービー(350円)とおかわり(165円)だけで、2~3時間、時には5時間以上も粘って、本を読んだり、ノートパソコンを広げて書評やブログを書いたりしている。(今も、このブログを、いつものスターバックスの席に座って書いている)

 最後に出張の移動車中も読書にはうってつけの空間であることを強調しておきたい。現在、定年後の再雇用の身なので遠方への出張の機会はほとんどないが、現役の頃(特に30~40歳代)はよく東京や地方へ出張に行ったものだ。 新幹線やJR特急は通勤電車と違って、座席はロマンス・シート(二人掛けのソファー式の座席)で、乗っている時間も遥かに長いので、通勤電車以上に、よく本が読める。列車の心地よい揺れに身を任せて本を読み、飽きたら窓外の風景に目をやり、眠くなれば、座席をリクライニングして寝て、起きたら缶コーヒー(帰りは缶ビール)を飲んで、再び読書に戻る……そんな至福の時間を持つことはもうないだけに、あの頃が懐かしい

2023年のマイベスト本

 2023年は1月7日に読了したベルンハルト・シュリンクの『逃げてゆく愛』を皮切りに、12月18日に読了したグレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』まで、計37冊の本を読んだ。書評を書いている人間にしては、恥ずかしいほど少ない数量であるが、本を読むのが往復の通勤電車の車中、会社の昼休み、週末の午後という限られた時間内であることを考えると、やむを得ないか。

 さて、今年読んだ本(小説に限る)のベスト10をつくってみた。下記がそのリストである。

・1位 『Uボート』ロータル=ギュンター・ブーフハイム(早川書房)

・2位 『軍艦武蔵』手塚正己(新潮文庫)

・3位 『秘密』ケイト・モートン(東京創元社)

・4位 『光を灯す男たち』エマ・スドーネクス(新潮クレスト・ブック)

・5位 『幕末』司馬遼太郎(文春文庫)

・6位 『深海の使者』吉村 昭(文春文庫)

・7位 『樅木は残った』山本周五郎(新潮文庫)

・8位 『湖の男』アーナルデュル・インドリダン(創元推理文庫)

・9位 『さらば、ストックホルム』K-O・ボーネマルク著(中公文庫)

・10位『愛する時と死する時』レマルク(新潮文庫)

 『愛する時と死する時』は第二次大戦に従軍したドイツの青年兵士を描いた世界的な名作文学。▼『さらば、ストックホルム』と『湖の男』は、ともにスパイが登場する北欧ミステリー。本ホームページの書評でも取り上げているので、関心のある向きはそちらを見て頂きたい。▼『樅木は残った』は伊達騒動の首謀者、原田甲斐を主人公に描いた山本周五郎の名作。日本人なら一度は読んでおきたい。▼『深海の使者』は太平洋戦争中、日本とドイツを結ぶ唯一の連絡便の役割を担った潜水艦の決死の航行を描いたドキュメンタリー・ノベルである。▼『幕末』は桜田門外の変など、幕末に起こった十二の暗殺事件を描いた連作小説。この中で清川八郎を描いた「奇妙なり八郎」が筆者には面白かった。▼『光を灯す男たち』は絶海の灯台から3人の男たちが消えた実在の事件を元にしたミステリー調の文芸作品。▼『秘密』は国民的女優ローレルが少女時代に目撃した、母をめぐる恐ろしい出来事。母の過去の隠された秘密を探る、オーストラリアABIA年間最優秀小説賞を受賞したミステリーである。▼『軍艦武蔵』は世界最大の戦艦、武蔵に乗り組んだ生存者(上は艦長から下は新米水平に至るまで)へ徹底的なインタビューを行ったノンフィクション。筆者は十九歳の時、ほんのわずかの期間だが、海上自衛隊の護衛艦で勤務した経験があるので、我が事のように読んだ。▼『Uボート』は世界中で大ヒットした同名映画の原作で、第二次世界大戦下の北大西洋を舞台に、Uボートの過酷な戦いを活写した戦争小説の名作。第二次世界大戦中、出撃した4万人のUボート要員のうち、3万人が帰らなかったという事実がいかに過酷なものであるかを物語っている。

 こうしてリストを眺めてみると、本屋大賞を受賞した人気作品や最近の話題作は一冊もない。食わず嫌いではない。筆者には読みたい作品(主に海外ミステリー、歴史小説、軍事ドキュメントなど)がたくさんあり、最近の若手作家の作品まで手を伸ばす余裕はないのである。それに、お金と時間を無駄にしたくないので、当たり外れがない既に評価が定まった作品へと目がいくのである。

 さて、来年は辰年。どんな作品を読もうか。

積ん読を愉しむ

 積ん読(つんどく)――買った本を読むことなく、本棚に積んだままにしている状態をいう。

 積ん読は、本好きにとって楽しいことであると同時に悩ましいことでもある。そんな心情を10月29日付の朝日新聞の天声人語で取り上げていた。その中で「書物を買い求めるのは結構なことであろう。ただし、ついでにそれを読む時間も、買い求めることができればである」という哲学者ショーペンハウエルの言葉を引用して、買った本が溜まっていくばかりで、読む時間がないことを嘆いている。全く同感である。

 そうした悩みに加えて、積ん読状態にある本棚を目の前にして、「これらを全部、読まなければ」、「ああ、こんなにも読み残している本がある」というプレッシャーや後ろめたを、本好きの方なら、多少なりとも抱くのではなかろうか。

 毎週、新聞に掲載される新刊の書籍広告や書評欄、あるいは書店の新刊コーナーを見て、あれも読みたい、これも読みたいという〝欲望と戦わなければならない〟。(「天声人語」)

 新刊の場合は、すぐに品切れや絶版になることはないので、「また今度にしよう」と欲望を抑えることができる。しかし、古本の場合はそうはいかない。ブツクオフに置いているような新古書ではなく、古本市で思いがけず見つけた、今ではもう絶対に手に入りそうにない本には「また今度」がない。正に一尾一会の出会い。ゆえに、欲しいと思った古本は絶対にその場で買うことにしている。

 そんな訳で、我が家の本棚には書店のブックカバーが付けられたままの新刊本(筆者は読み終えるとブックカバーを外すことにしている)と、本の天や小口がやや黄ばんだ未読の古書がうず高く積まれている。

 よく、積ん読の本は「退職後の(あるいは老後)の愉しみに残しておく」という人がいる。しかし、歳を取ると、目の機能が衰えるためか、本を読んでいてもすぐに眠くなる。また、登場人物が多い海外の作品では、人物名が、なかなか頭に入りづらくなる。さらに、家にはテレビという読書の妨げになる最大のライバルが存在する。今日ではインターネットやYouTubeという新手のライバルも現れた。このように、老後になったからといって、読書三昧ができるわけではない。

 積ん読は、なにも老後にならなくても愉しむことができる。本棚にある未読本を前にして、今、読んでいる本を読み終えたら、次はどれを読もうかと思案すること自体が楽しいひと時だ。また、書店のカバーが付いた本なら、本を開いてみて「ああ、こん本、買っていたんだ」という、忘れていたがゆえの新たな発見もある。

 積ん読について悩んだり、後ろめたい思いをしたりする必要はない。積ん読そのものを愉しむことを提案したい。

ネコと作家

 神戸ファッション美術館で開催中の「超・色鉛筆アート展」を見に行った。

 色鉛筆は誰しも子どもの頃、お絵かきやぬりえで使っていた親しみのある画材だ。しかし、侮るなかれ。筆圧の調整や重ね塗りによって、多彩で奥の深い趣が出せることから、色鉛筆で描くプロの画家もいる。同展覧会では、現在、我が国で活躍する色鉛筆作家12人の超絶技巧=「神ワザ」を紹介していた。

 展覧会を見て筆者が驚いたのは、ネコを描いた作品の多さである。120点の展示作品の内、実に四分の一がネコの絵だった。そして、どれもが毛の一本一本まで精緻に描かれ、写真と見まがう出来栄えだった。それに対してイヌを描いたのは、わずか一点だけ。

 書店に並ぶ動物の写真集も、イヌよりもネコの方が多い。文学も同様。『フランダースの犬』(ウィーダ)や『荒野の呼び声』(ジャック・ロンドン)のようなイヌが主役の作品もあるが、ネコが登場する小説の方が圧倒的に多く、しかも、『黒猫』(ポー)、『牝猫』(コレット)、『吾輩は猫である』(漱石)、『猫と庄造と二人の女』(谷崎潤一郎)などのように文学性も高い。

 また、作品に取り上げるだけでなく、実際にネコを飼っている作家(小説家、漫画家、写真家を含む)も多い。作家の仕事机の上を悠然と歩くネコが映る場面をテレビでもよく見かける。

 なぜイヌよりネコを描いた作品の方が多いのだろうか? それはネコの持つミステリアスな雰囲気、こちらの心の内も見透かしているようなあのクールな目、人に媚びない孤高な態度が作家の創作欲を掻き立てるのだろう。愛すべきお馬鹿さんとも言うべきイヌの天真爛漫さは、どうやら芸術にはマッチしないようだ。

 筆者もネコを見ていると(と言っても、飼っているわけではないが)、小説になりそうなシチュエーションが脳裏に浮かぶ。ある独身の男が真っ白な美しい牝猫と暮らしている。その牝猫は夜になると妙齢の女性に姿を変えて・・・。しかし、こんなモチーフは、既に誰かが作品で書いているに違いない。では、こういうのはどうだろうか。この独身男性には恋人がいて、彼女がその牝猫に嫉妬して、牝猫を殺してしまう・・・これも、二番煎じだろう。それならば・・・

 なるほど、作家ならずとも、ネコは見ている人の創作欲を掻き立てる魅力的な生き物である。

活かされなかった情報

 イスラム原理主義組織ハマスが、今月の7日、イスラエルへ奇襲攻撃を行った。奇襲を許してしまったことで、イスラエルの情報機関への批判が強まっている。イスラエルの情報機関と言えばモサドが有名だが、なぜ世界有数の情報機関と言われるモサドが、このような失態を演じてしまったのか? 新聞報道によれば、主な要因は次のようなことである。

①ハイテク頼みの情報収集の裏をかかれた

 イスラエルは無人機や通信傍受などハイテク技術を用いて、ハマス指導者たちの動静を監視していた。ハマスはこれを警戒して、ネットワークを使用せずに、地下で隠密に紙媒体の文書を用いて交信し、その場で破棄させるなど、アナログな隠密行動に徹し、モサドの諜報網を搔い潜ったと言われている。

②ハマスの能力を過小評価した。

 今回、ハマスはロケット弾だけでなく、戦闘員がパラグライダーやボートを用いてイスラエルへ侵入した。テロ組織が陸海空から同時攻撃を行う能力や手段を有することなど、これまでの経験からイスラエルにとって、到底、考えられないことだった。

③警戒情報を軽視した

 いやしくも、モサドともあろう情報組織が、ハマスのロケット弾製造などに全く気づかず見逃すことはあり得ない。また、奇襲攻撃の数日前、エジプトの情報機関がイスラエル政府に対してハマスによる攻撃の可能性を警告していたという。それにもかかわらず、それら情報を軽視したのは、②で述べてことに加え、近年の中東情勢の融和ムードから、警戒情報を本気にせず、過小評価したためだと言われている。

 いずれも要因として十分に考えられことであるが、筆者は特に三番目の要因が最も影響していると考えている。過去の歴史を振り返ると、情報機関が奇襲攻撃に全く気づかなかったとはあり得ない。

 1941年6月22日未明、ナチス・ドイツ軍は、突如、ソ連へ侵攻した。それより前からソ連のスパイ、ゾルゲは、独ソ戦開戦を警告する情報をスターリンへ送っていたが、スターリンはそれを信じなかった。と言うより、信じたくなかったのだ。

 せっかくの情報も為政者によって、全く活かされていないことがままある。為政者(あるいは、その機関のトップ)にとって、都合の悪い情報は軽視されるか無視され、都合の良い(心地の良い)情報だけが取り上げられる。情報を活かすも殺すも、とどのつまりは受け手しだいだ。そんなスパイがもたらす情報の危うさを、グレアム・グリーンは『ハバナの男』で、ジョン・ル・カレは『パナマの仕立屋』でアイロニカルに描いている。

長編小説と短編小説

 長編小説と短編小説――どちらもそれぞれ魅力があり、どちらを好むかは人それぞれ。筆者の場合、状況によって異なる。

 筆者が長編小説を読むのは、通勤電車の中、会社のお昼休み、週末のスターバックスなど、もっぱら日中である。夜は頭が疲れているせいか、本を読んでいてもすぐに眠くなるし、複雑な人物関係や物語の伏線も頭に入りにくい。

 長編小説の魅力は、何と言っても様々な人物が登場し、大河の流れのように物語が滔々とクライマックスに向かって展開していくことだろう。長い作品の場合、読み終えるのに1か月、場合によっては2~3か月を要する場合もある。それだけ、長い間、登場人物たちと一緒に物語の世界を過ごしていると、主人公をはじめ、登場人物たちに対する思い入れも増し、読み終えたとき、充実感よりも、筆者の場合、「もう、この人たちと一緒にいることもないのか」という一抹の淋しさ、陳腐な表現だが、まさに「心にぽっかりと穴が開く」という感覚に陥る。

 最近であれば――再読になるのだが――手塚正己の『軍艦武蔵』(正確にいえば、小説ではなく、ドキュメンタリーだが)がこれに当て嵌まる。

 一方、短編小説は長編小説のように主人公と共に人生を歩むという感覚はないが、物事のある一面を切り取り、読み手の心をざわつかせたり、ヒヤリとさせたり、クスリとさせたりするのが醍醐味だ。殊にアンソロジーの場合は、一冊で色んな味の作品が堪能できるので、幕の内弁当のような魅力がある。

 筆者の場合、寝る前のひと時に短編小説をよく読む。寝る前に長編小説はヘビーだ。その点、短編小説は、短いものであれば30分もあれば読み終えるので、ちょうどキリよく、眠りにつくことができる。

 短編小説を読む時間帯は、寝しな、即ち夜であるので、作品はミステリアスなものや、怖いものがよい。昼間の明るくて人が多い場所で怪談を読んでも、ちっとも怖くない。読むなら、断然、夜だ。何気ない日常風景を読みやすい文章で綴り、最後に思わず背筋を凍らせるようなオチがある阿刀田高の作品などは、筆者にとって、最良の寝物語である。

 さて、あなたは長編小説派? それとも短編小説派、どちらであろうか?