2024.9.1 スパイは人たらし

 前回のブログで取り上げた『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』の文庫版を読んだ。

 キム・フィルビーは「相手の心に愛情を、いとも簡単に吹き込んだり伝えたりでき、そのため相手は自分が魅力の虜になっているとは、ほとんど気づかないほどだった。男性も女性も、老いも若きも、富める者も貧しき者も、誰もがキムに取り込まれた。(中略)立ち振る舞い実に見事で、常に誰よりも早く飲み物を差し出し、相手の母親が病気なら誰よりも早く具合を尋ね、子持ちなら子供の名前を誰よりも早く思い出した。笑うのが大好きな上に、酒を飲むのも人の話しを聞くのも大好きで、しかも聞くときは心の底から真剣に、興味津々になって聞いた」(小林朋則訳)という魅力的な人物だった。

 こういう人たらしの男だったからこそ、МI6の盟友ニコラス・エリットや、CIAの対情報部門の責任者だったジェームズ・アングルトンは、心を許して何でも(その中には重要な機密情報も含まれている)キム・フィルビーに話し、それがそのまま彼によって、ソビエトへ伝えられていたのである。

 スパイ活動の要は相手から情報を探り出すことである。そのためは相手と親しくなる必要がある。ニコラス・エリオットは後年、情報将校にとって「友人を作る能力はとりわけ重要な資質である」、「現場での膨大な量の情報活動は、とにかく個人的な関係を築くことに尽きる」と語っているが、キム・フィルビーは、正にこれの最たる例といえよう。

 キム・フィルビーに限らず、優れたスパイは、総じて人たらしである。第二次世界大戦下の日本で諜報活動を行っていたソビエトのスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、大酒のみで女たらし(人たらしは女性にモテる)だったらしい。また、冷戦時代、ベルリンにあるソビエト施設の床下に英米が設けた「盗聴用トンネル」をソビエトに密告し、東ドイツ国内における対英協力者の名簿を持ち出したイギリスのスパイ、ジョージ・ブレイクは、「ハンサムで背が高く、立ち振る舞いは実に見事で、どこへ行っても人気のある男」だったという。さらには、第三次中東戦争の最中、五千名のエジプト人捕虜との交換で釈放されたモサドの英雄・ウォルフガング・ロッツは、エジプト社交界の寵児と言われた人物だ。

 こうした明るくて社交的な資質は、とりわけ営業の世界で求められることは誰もが首肯することだろう。コミュニケーション能力に欠ける人が営業マンとして成功するのは難しい。一方、スパイについては〝根暗〟や〝裏切り者〟などネガティヴなイメージを抱きがちだが、実際は正反対なのだ。

 あなたの身の回りにいる明るくて誰からも好かれているあの人は、実は最もスパイに向いている人物なのである。

2024.8.4 同じ本を二回買う

 書店の書棚に並ぶ文庫本を見て回っているとき、「しまった」「チクショー」と思う時がたまにある。それは、ある作品を既に単行本で購入していて、同じ作品が文庫本で出ていたときである。今回、取り上げる『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』(ベン・マッキンタイヤー著/小林朋則訳)は正にその典型例。

 同書は2015年5月に中央公論社から出版された。内容も資料写真も充実しているので、スパイ小説の書評家を自認している筆者として、絶対に読んでおきたい本だ。それに、こうしたスパイを取り上げた書物はあまり売れることはないから、間違いなく、数年後には絶版になっている可能性が高い。「(売れそうにない)欲しい本は、出会った時に買っておけ!」というのが筆者の苦い経験から得た教訓なので、躊躇することなく、その場で購入した。

 それから、9年後の2024年、同書の文庫本(中公文庫)が出た。筆者の読書スペースは――週末にスターバックスで集中して読むものの――普段は朝晩の通勤電車の車内が主である。コンパクト(単行本のサイズは四六判、文庫本はA6判)で、片手だけ(雨の日に電車の中で立っているときは、左手で傘を持ち、右手で本を持つ)で持っても負担にならない重さ(同書の単行本は611g。文庫本はその半分の320g)、しかもカバンの中に入れてもかさ張らない文庫本は、正に通勤の友である。

 従って、同じ本が単行本と文庫本の両方で出ている場合、絶対に後者の方を買うことにしている。ただし、今回は既に単行本を買っている。書店のブックカバーを付けた状態で我が部屋の本棚に9年間も積ん読(ツンドク)状態で置かれたままであるが、いずれ読むことは間違いない。無駄遣い(因みに文庫本の値段は 1,650円もする!)をしたくなかったので、文庫本は買わなかった。

 いずれ読もうと思いながらも、単行本の『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』を読み始めることは、なかなか、なかった。何度か手にするのだが、やはり、その大きさと重さでうんざりしてしまう。しかし、目次をパラパラめくっていると、興味ある内容ばかりだ。その結果、無駄遣いになると分かってはいたが、先日、ついに文庫版を買ってしまった。

 部屋の本棚に単行本と文庫本の『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』が並んでいるのを見ると、「もっと早く文庫版が出版されていたら」、「単行本と出会う前に文庫本に出会っていたなら」という思いがする。

 先日、ジョン・ル・カレの『パナマの仕立屋』の新刊の文庫本(ハヤカワ文庫)が書店に並んでいるのを見た。筆者は1999年に集英社から出版された単行本で既に(2015年7月に)読んでいるので、さすがに文庫本版を買うことはないが、やはり、キム・フィルビーの本と同じように、もっと早く文庫本になってほしかったという一抹の口惜しさはある。

2024.7.14 ノイズは雑音ではない

 妻と息子は新聞をほとんど読まない。そのことを彼らに指摘すると、「わざわざ新聞を見なくてもネットで世の中のことは分かるから」、挙句の果ては「お金がもったいないから、この際、新聞をとるのをやめたら」とまで言ってくる。

 確かに紙媒体の新聞を読まなくても、5大新聞はそれぞれ電子版を発行しているので、パソコンやスマホでそれらを読むことができる。しかも、Yahoo!ニュースなどであれば無料だ。加えて紙媒体のように物理的に溜まることがないので、古新聞として定期的にゴミ出しする必要もない。しかしである。だからと言って、筆者は紙媒体の新聞を購読するのをやめはしない。

 ネットニュースは自分の興味あるニュースしかクリック(=読む)しないので、興味のないニュースは入ってこない。それに対して紙媒体の新聞は、めくったそれぞれの紙面に載っている興味のないニュースも自然に目に入ってくる。三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)によれば、このような、偶然、目に入って来る予期しない情報を〝ノイズ〟と呼ぶそうだ。

 筆者が新聞の書評欄を読むのが好きなのも、正にこのノイズがあるから。新聞の書評欄は3~4頁で構成しており、紹介しているジャンルは、文芸、ノンフィクション、エンタメ、社会科学、自然科学など幅広い。書評欄の紙面を広げると、否が応にも、タイトルやキャッチコピーが目に入って来るので、普段、読まない社会科学や自然科学分野の本であっても、思わず興味をそそられ、場合によっては書店で買い求めることがある。 

 一方、ネットの書評ではそうはいかない。検索するのは興味がある本なので、興味のない本は引っかかってこない。

 古書を求める場合も、ノイズがあるから古書店や古本市へ行くようにしている。古書店や古本市で求めている本が見つかる可能性は極めて低い。むしろAmazonや古本専門のサイトで探した方が見つかる確率は高い。

 しかし、古書店や古本市で書棚を眺めていると、知らなかった、予期しなかった本(即ちノイズ)に出合う可能性がある。これが最大の魅力である。筆者の最も好きなスパイ小説であるR.ライト・キャンベルの『すわって待っていたスパイ』も、まさに古本市で出会ったノイズなのである。

 筆者にとってノイズは雑音ではなく、宝が埋もれている砂利土なのだ。

2024.6.9 次に読みたい本を楽しむ

 土曜日の朝は新聞の書評欄を読むのが楽しみである。筆者が購読している朝日新聞の場合、書評欄は4~5頁で構成しており。紹介している本のジャンルは、文芸、ノンフィクション、エンターテイメント、社会科学、自然科学など幅広い。勿論、全てに目を通すわけではない。小説の書評は読むようにしているが、他のジャンルについては興味を惹いたものだけである。

 書評に目を通して、読みたい本があった場合どうするか? 以前は忘れないように、名刺大のカード用紙に、タイトル・著者名・出版社名をメモして財布に入れていた。そして、書店に行ったときに、そのカードを財布から取り出して、そこに載っている買いたい本リストのメモを見ながら、欲しい本を探すのだ。

 リストには過去に買おうと思ってメモし、まだ買っていないものも並んでいる。特に古典になっているような小説は、恒常的に書棚に置かれているので、すぐに買う必要はなく、長らくリストに載ったままである。一方、買い済みの本やリストに載せたものの、途中で興味が失せた本は二重線で消されている。

 読みたい本は次々と増えるが、カードは財布に入れるので、一枚にしておきたい。そのため、途中から二重線ではなく、ホワイトの修正テープで消して、その上から新たに買いたい本を記載するようになった。その結果、カードは何回も上から貼られた修正テープでゴワコワした状態になっていた。

 スマホが普及した現在、買いたい本はカードへの記載に代わって、スマホの写真で、タイトル・著者名・出版社名が分かる箇所を撮っている。買いたい本は書評欄だけでなく、書店の立ち読みを通じても出てくるので、忘れないよう、その場で表紙を(店員に見つからないようにして)写真に撮っている。

 筆者のスマホのフォトライブラリには「本」という名のアルバムがあり、そこに、これから読みたい本の写真が収められている。そして、ときどき、それらを見ながら次はどの本を買おうかと、密かに楽しんでいる。

2024.5.12 みやこめっせ古書即売会

 このゴールデンウィーク(5月4日)に京都市の岡崎公園近くにある〝みやこめっせ(京都市勧業館)〟で開催されていた「第42回春の古書大即売会」(主催:京都古書研究会)へ行ってきた。

 京都を中心に大阪、奈良、三重などから約30の古書店が参加し、1900㎡(因みに小学校の体育館の平均面積は約700㎡)の会場スペースいっぱいに、古典・学術書・美術書・小説・雑誌・マンガなど様々なジャンルの古書が50万冊以上並ぶ、屋内で行われる即売会としては国内最大規模のものだ。

 11時に会場に着き、入口近くの棚からローラー作戦のようにして見ていく。気が付くと、もう14時。昼ごはんを食べるため、出かける前にチェックしていた会場近くにある老舗の蕎麦屋へ行った。しかし、快晴のゴールデンウイークの観光地とあってか、この時間帯でも店の庭先には客待ちの行列ができていた。そこで、第二候補の蕎麦屋へ行くが、ここも、第一候補の店ほどではないが、数組の先客が並んでいた。

 即売会の終了時間は16時半。午前中3時間掛けても、まだ3店舗分しか見ていない。蕎麦屋で食事をしていたら、見る時間が足りなくなるで、ワゴン車で販売していたオニギリを一個買って、近くのベンチで食べ、14時半に再び即売会の会場へ戻った。

 午前中のように棚を一つ一つチェックしていたら、終了時間までに半分も見ることができない。筆者が求めているのは主に海外の古いミステリーなので、文庫本(文庫本の横にはポケミスも置かれていることが多い)だけに的を絞ってチェックすることにした。

 この即売会の最大の欠点は会計システムである。それぞれの参加店舗で会計を済まさなければならないので、買おうかどうか迷っている本があっても、それを持ったまま他の店舗の棚を見て回ることができない。その場で買うか、一旦、保留にして全ての棚(但し、文庫本だけ)を見終わってから、やはり欲しい場合に、もう一度、この棚に戻って買うしかない。しかし、戻ってきたときには、往々にして既に売り切れているものだ。そうでなくても、広い会場内で、その本がどの棚にあったか正確に覚えておくのは難しいし、そもそも保留にしている本自体についても3~4冊なら記憶していられるが、それ以上になるとあやしくなる。

 その点、かつて関西古書研究会が大阪市・京橋にあるツイン21のアトリウム(600㎡)で開催していた〝ツイン21古本フェア〟は、一か所に総合的な会計レジがあったので便利だった。迷っている本があれば、とりあえずプラスチックの買い物カゴ(会場内に用意されていた)に入れて、他の棚を見て回り、会計する前にカゴの中の本を再検討。本当に欲しいもの以外は元の棚に戻してから会計すればよかった。

 本の一冊一冊に店舗名と価格が記された栞のような値札を挟み、レジで回収した値札を店舗ごとに分けて売上を分配するなど、個別の店舗ごとで会計をする方法より、主催者や参加店舗にとって手間がかかることは確かである。しかし、目ぼしい本があったら、とりあえずカゴに入れて会場内を見て回り、後でカゴの中から本当に欲しい本を絞ることも、筆者にとっては、古書即売会の愉しみの一つである。

 京都古書研究会が夏に下鴨神社、秋に知恩寺で開催する古書即売会は、屋外の境内で店舗ごとにテントを張って行われるものなので、それぞれの店舗ごとで会計をするのは納得がいく。しかし、屋内のワンフロア―で開催される、みやこめっせでの即売会では、何とか統一したレジの導入を検討してほしいものだ。

 結局、この日は島木健作の『赤蛙』(新潮文庫・復刊版)、フランシス・リックの『危険な道づれ』(ハヤカワ・ポケミス)、スタンリイ・エリンの『九時から五時までの男』(ハヤカワ文庫)の三冊を買い、4時頃に会場を後にした。

2024.4.14 町の本屋について

 長引く出版不況の影響を受け、書店が次々と消えている。ある調査会社のデータによると、1990年代末には2万3000店ほどあった全国の書店数が、この20年間で半数以下に減ったという。特に個人経営の小規模店舗(いわゆる〝町の本屋〟)では、その傾向が著しい。

 本好きの人にとっては淋しい限りだし、マスコミもこうした状況は我が国の文化の衰退であると憂いている。しかし、筆者には町の本屋に対する思い入れは、あまりない。昔から大型書店(最低でもショッピングモールに入居するような中規模の書店)の方が好きだった。

 大型書店の方が、圧倒的に在庫点数が多いので、欲しいと思った本は、絶版本でない限り、大概は置かれている。また、売り場面積も広いので、いろいろな本を、たっぷり時間をかけて立ち読み(気に入った本があれば購入)することができ、思いかけない出会いもある。これが筆者にとっては至福のひと時だ。

 一方、町の本屋は総じて売り場面積か狭いので、売れ筋の本しか置いていない。また、店主(店員)が近くにいるので、長時間、立ち読みするのも気兼ねする。特に筆者の場合、中学生のときに経験したあることがトラウマになっている。

 思春期の頃は、ヌードグラビアを見ただけで興奮する。筆者も学校の帰り道にあった本屋で時々エロ本(この言葉も、今では死語になっている)を立ち読みしていたが、あるとき店主からハタキをかけられたことがあるし、また別の日には「立ち読みせんといて!」とストレートに文句を言われたこともある。――こういう経験があるので、立ち読みは店主の存在を近くに感じる町の本屋ではなく、気兼ねなく何時間も過ごすことができる大・中型書店で行うのが専らである。

 ところが、この〝店主の存在〟というのが消えゆく町の本屋の生き残り策でもあるのだ。例えば、トークイベントを開催したり、店主の推し本を紹介するコーナーを設けたり、店主が積極的にお客に話しかけて、お客に一番合った本を薦めるなど、それぞれ独自の工夫を凝らして頑張っている。そして、そうしたことが大型書店にはない、町の本屋ならではのアイデンティティにも繋がっている。

 しかしながら、初めて覘いた本屋で、いきなり店主から「どんな本をお探しですか?」と尋ねられるのは、筆者の場合、ちょっと有難迷惑である。本の立ち読みは、店主や店員の存在を感じることなく、自分のペースでゆっくり時間をかけて行いたい。

〝店主の存在〟は、良きにつけ悪きにつけ、町の本屋にとって切り離せないものである。

2024.3.24 映画「愛と哀しみのボレロ」

 過去の名作映画を映画館の大スクリーンで上映する「午前十時の映画祭」で、先日、「愛と悲しみのボレロ」という作品を観た。

 1930年代から80年代までのベルリン、ニューヨーク、モスクワ、パリを舞台に、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、作曲家グレン・ミラー、舞踏家ルドルフ・ヌレエフ、歌手エディット・ピアフをモデルにした四人の芸術家とその子供たちの波瀾に満ちた人生を描いた、フランス映画の巨匠クロード・ルルーシュ監督による3時間を超える超大作作品だ。ラヴェルのボレロに乗ってバレエ・ダンサーのジョルジュ・ドンが踊るラスト15分は圧巻である。

 この映画のテーマは、冒頭に映し出されるアメリカ人作家ウイラ・ギャザーが語った「人生には二つか三つの物語しかない。しかし、それは何度も繰り返されるのだ。その度ごとに初めてのような残酷さで」というテロップに集約される〝繰り返し〟である。 

 直接、第二次世界大戦を経験した1世代の親たちは当然のことながら、2世代の子どもたちも、それぞれ運命に翻弄され、苦労や悩みを抱えて生きている。

 映画では同じ俳優が一人二役で親子を演じていることもあって、観る者を混乱させがちにするが、子供は親の遺伝子を引き継いでいるので、親と似ているのは当然。筆者には、それが却って〝繰り返し〟に相応しく思われた。

 そして、何より同じ一定のリズムの通低音のもと、二種類の旋律が延々と繰り返される「ボレロ」という楽曲自体が、正に〝繰り返し〟の象徴ではないだろうか。

 映画が公開されたのは1981年。当時の国際情勢を見ると、79年末のソ連によるアフガニスタンヘの軍事介入以来,米ソ関係は更に厳しさを増していた。また、イスラエルが正規の手続きを経ずにイラクの原子炉を爆撃したことから、欧州の西側諸国はこぞってイスラエルを非難。さらに、アメリカでは「強いアメリカ」の再現を掲げ、南部や中西部の農業地帯の白人中産階級から絶大なる支持を集めたロナルド・レーガンが、1月に第40代大統領に就任した。

 それから43年経った2024年。ペレストロイカとソ連崩壊によって、ロシアにも漸く民主化が訪れたかのように思えたが、ウクライナへ侵攻し、政府に楯つく者を容赦なく投獄/暗殺するプーチンによって、ロシアは再びソ連時代へ逆戻りしている。イスラエルのガザ侵攻によって、何の罪もない女性や子供たちが犠牲になり、国際世論はイスラエルを激しく非難している。そして、〝アメリカ・ファースト〟を掲げるドナルド・トランプが、地方の白人労働者階級の圧倒的な支持を得て、再び大統領に返り咲くかもしれない。

 歴史は繰り返しである。「愛と哀しみのボレロ」を見て、そんなことを想った。

2024.3.10 書きたくて書けなかった小説

 40歳の頃まで小説家になりたいと思っていた。しかし、仕事をしていると、なかなか書く暇がない。(今では、それが都合の良い言い訳であることがよく分かる。本当に小説を書きたい人は、どんなに時間がなくても、寸暇を惜しんで原稿用紙に向かっているものだ。)

 それでも、仕事の関係で東京へ単身赴任していた1998年~2000年の3年間は、休日に家族サービスもする必要もなく比較的時間があったので、「この間に本腰を入れよう」と、小説の執筆に取り組んだ。

 書きたいと思った小説の題材は、別冊・歴史読本Vol.59『江戸諸藩 役人役職白書』で知った〝狼取り〟のことである。馬産地である南部藩では、藩に献上する馬たちを狼(当時は、まだ日本に狼が棲息していた)から守るため、猟師から選んだ者に俸禄、鉄砲、弾薬を支給して狼害防止対策の任に就かせていたという。

 狼取りを主人公にどんな物語にしようかと色々構想を練り、時には根岸競馬記念公苑にある「馬の博物館」まで足を運んで、我が国の馬の歴史に関する文献を調べたり(当時は、今ほどインターネットで何でも公開されている時代ではなかった)もした。しかし、どうしてもヘミングウェイの『老人と海』や吉村 昭の『熊撃ち』のような、偏屈で頑固者だが、その道の名人と言われる漁(猟)師の主人公と、対象となる動物との孤独な死闘という紋切型になってしまう。登場人物(片方は人間ではないが)もこの二人だけで、小説として拡がりに欠ける。もっと色々な人物を登場させて小説らしくしようとあれこれ考えたが、筆者には「経験したことしか書けない」という小説家志望者にとって致命的な弱点があったので、複数人の人物を舞台の上で廻していくことができない。それどころか、経験したことしか書けないので、主人公である猟師のことも、いざペンを持つと一行も進めない。そんなことがあって、いつしか狼取りのことはおろか、小説を書くという夢もなくなってしまった。

 あれから二十数年経った昨年の11月、角川春樹事務所から発刊された『奥州狼狩奉行始末』(東圭一著)を新聞の書籍広告で知った。筆者が書こうと何度も呻吟して、結局、書くことができなかったことを小説にしている! この東圭一という作家は狼取りのことをどのように料理したのだろうか? 早速、書店で買い求め、むさぼるようにして読んだ。

 これは狼狩を通じて掘り起こされた、主人公の父に起こった非業の死の真相と、その裏に隠された藩の不正の謎を暴く時代ミステリである。〝黒絞り〟という知能、身体力ともに優れた狼の群れの頭目が出てくるが、あくまでも事件のきっかけにすぎない。〝狼狩奉行〟と言うタイトルこそ付いているが、これはレッキとした人間ドラマだ。だからこそ第15回角川春樹小説賞を受賞したのであろう。こういう展開の仕方があったのか、筆者は素直に作者に脱帽した。

2024.2.18 最近、ハマっている海外の刑事ドラマ

 最近、二つの海外の刑事ドラマにハマっている。

 一つはNHKで毎週日曜日午後11時から放送の『アストリッドとラファエル 文書係の事件録』)。

 自閉症だが、それゆえの几帳面さ、繊細さ、集中力、抜群の記憶力と論理的思考によって、犯罪資料局の膨大な資料の中かから関係する資料を探し出し、事件の謎を解くアストリッド。一方、少々がさつなところもあるが、おおらかで思いやりがあり、正義感旺盛でついつい警察のルールを逸脱しがちな猪突猛進型のラファエル。正反対の二人がお互いの足りない部分を補い協力し合いながら事件を解決していくフランスミステリーだ。

 アストリッドを演じるサラ・モーテンセンが自閉症を患っている人の特徴(視点の定まらない目、集中するとき指を動かす動作、どこか危なげな所作など)をよく捉えている。 

 このドラマは、主役の二人だけでなく、脇を固める人物たちも魅力的だ。ラファエルにひそかに思いを寄せているニコラ警部。いつもアストリッドに自分の見落としを指摘されるのが小癪だが、彼女の優れた能力を認めている監察医のフルニエ。いつも勝手な行動をするラファエルに手を焼いている上司のバシェール警視正など、それぞれ個性があって存在感がある。

 もう一つのハマっている刑事ドラマは、テレビ大阪で毎週金曜日午後12時45分から放送の『刑事モース ~オックスフォード事件簿~』

 イギリスではシャーロック・ホームズを凌ぐほどの人気を誇る刑事ドラマ『主任警部モース』。彼の若かりし日々を描いたのがオックスフォード事件簿シリーズだ。

 オックスフォード大学で古典文学を学んだモースは成績優秀な奨学生だったが、失恋で大学を中退。その後、陸軍に入隊するが肌に合わず、警察官となってオックスフォードのカーシャル・ニュータウン署に配属された。該博な知識と鋭い観察力、天才的な閃きによって事件の謎を解いていく。しかし一方で妥協知らずで、こだわりが強いため、周りと摩擦を引き起こすこともしばしば。モースの能力を買っている上司のサーズデイ警部補や同僚たちとの関係のなかで、人間的に成長していくところも、このドラマの魅力である。

 モースを演じるショーン・エヴァンスの知的で繊細な感じが、主人公のイメージにピッタリだ。

 舞台は1960年代後半のオックスフォード。落ち着いた街のたたずまいがいかにもイギリス的だ。また車や女性の化粧服装に当時が偲ばれる。特に女性の化粧や服装は、筆者が小学生の頃に見た外国の女優やモデルのそれであり、どことなく懐かしい。

 海外の刑事ドラマは、これまで色々と放送されてきたが、『アストリッドとラファエル 文書係の事件録』と『刑事モース~オックスフォード事件簿~』の二つは、〝謎解き〟が楽しめるドラマだ。筆者にとっては、1970年代に放送されていた「刑事コロンボ」シリーズ以来、久々に毎週の放送が待ち遠しい刑事ドラマである。

2024.1.28 スターバックスは週末の書斎

 前回のブログで、スターバックスが筆者の読書スペースの一つであることを述べたが、今回、その理由について述べる。

 スターバックスのコンセプトは、家でも職場でもない「第三の空間」だという。「第三の空間」とは自宅(fast place)や学校、職場(second place)でもない、居心地の良いカフェ等、ゆったりとリラックスできる場所(third place)のこと。

 なるほど、それに見合うようにスターバックスの店内はアース色を基調とした内装や品の良い椅子類、温かみのある暖色系の照明、心地よく自然に耳に入って来るBGMなど、落ち着いたリラックスできる雰囲気がある。

 店内のつくりだけでなく、スタッフもレベルも高い。一般的な飲食店の場合、社員教育に割かれる時間は2~3日だが、スターバックスは実に80時間、約2ヵ月に及ぶという。正に社員教育の賜物。愛想がよく、よく気配りができるスタッフがいてこそ、居心地のよいスペースとなり得る。

 スターバックスといえばスイーツと見まがう様々なフラペチーノが売りであるが、筆者はシンプルなドリップコーヒーを飲むことにしている。独自の培煎方法によって抽出されたコーヒーは、ほどよい苦みと酸味があって美味しい。

 さらに言えば、「at_STARBUCKS_Wi2」という無料で利用できるwi-fiも魅力的だ。プレゼン資料やレポートを作成する際にネット検索は欠かせない。筆者も書評やブログを書くとき、ネット検索をよく行うので、店内でwi-fiが利用できるのはありがたい。

 試験勉強や読書をする場合、自宅だとテレビなどの誘惑がある。そうかと言って図書館は自宅や職場の近くにあるとは限らない。「第三の空間」はそうしたニーズに応えてくれる場所である。

 筆者も自宅にいる場合、ついテレビを見てしまうので、スターバックスのように本を読むしか(あるいは書評やブログを書くしか)しようのない場所というのは貴重だ。しかも、その場所が上に述べたように、落ち着いてゆったりでき、何時間、居続けても嫌な顔をされないので、筆者にとってスターバックスは、正に週末の書斎である。