2025.1.12 巳年に想う

 今年の干支は巳。蛇は脱皮して成長することから、巳年は〝変化の年〟と言われている。しかし、今年65歳になる身として、ことさら変えたいものはないし、また長年の習慣から、そう簡単に変われるものではない。身の周りのことについても、あまり変わってほしくないというのが正直な気持ちである。

 それでも、世の中は次々と変わっていく。買い物一つとっても、セルフレジやスマホ決裁。二十代の息子は当たり前のように行っているが、昭和生まれの筆者には戸惑うことばかり。家電製品の設定に関してサポートセンターへ問い合わせようとしても、チャットへ誘導され、すんなりとオペレーターと直接、電話で対話することができない。

 コスト削減のため、あらゆる場面で人が減らされていく。自分が若かった頃のような人との対面販売が当たり前だった時代が無性に懐かしい。筆者のように、世の中の変化についていけない人は、この先どうなるのだろうか。

 その点、蛇は環境に合わせて変化した究極の生き物であろう。草藪や地中を移動するのに脚は邪魔になることから退化して、あのような姿になった。なるほど、脚を残したトカゲに比べて草藪をスムーズに移動することができるだろう。その代わり失ったものもある。これは人間だけが思うことであるが、脚をなくした代償として、あのグロテスクで気味が悪い姿になってしまった。その結果、「蛇蝎」という言葉が象徴しているように、蛇は忌み嫌われる存在になってしまったのである。

 反対に、かつて地球上を支配していた恐竜は、環境の変化に対応できずに滅んでしまった。しかし、滅んでしまったがゆえに、後世の我々にロマンを掻き立ててくれる存在になっている。忌み嫌われるよりも、よっぽど良いではないか。

 変化することを全て拒絶しているのではない。しかし、「不易流行」という言葉があるように、いくら環境が変わっても、変えてはならないこともあるのである。

2024.12.31 2024年のベスト本

 2024年は1月8日に読了したグレアム・グリーンの『スタンブール特急』を皮切りに、12月29日に読了したヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』まで、計38冊の本を読んだ。

 さて、今年もこの一年間で読んだ本のベスト10をつくってみた。下記がそのリストである。

・10位『詐欺師×スパイ×ジェントルマン』 鱸一成(幻冬舎ルネッサンス)

・9位 『シルバービュー荘にて』 ジョン・ル・カレ(ハヤカワ文庫)

・8位 『タタール人の砂漠』 ディーノ・ブッツァーティ(岩波文庫)

・7位 『小説8050』 林真理子(新潮文庫)

・6位 『64(ロクヨン)』 横山秀夫(文春文庫)

・5位 『春にして君を離れ』 アガサ・クリスティ(ハヤカワ文庫)

・4位  『二人の妻を持つ男』 パトリック・クェンティン(創元推理文庫)

・3位 『殺意』 フランシス・アイルズ(創元推理文庫)

・2位『クロイドン発12時30分』 F.W.クロフツ(創元推理文庫)

・1位『キム・フィルビー』 ベン・マッキンタイア (中公文庫)

 『詐欺師×スパイ×ジェントルマン』は、スパイ小説を論じた自費出版本である。同じようにスパイ小説論を書いている身として、これ以上、興味ある本はなく、迷うことなくその場で買い求めた。ジョン・ル・カレのスマイリー三部冊(『ティンカー、テイラー、ソルジャー・スパイ』、『スクールボーイ閣下』も『スマイリーと仲間たち』)を例に、サラリーマン社会を切り口にして解くジョージ・スマイリー論は、サラリーマンだった筆者ならではのユニークな論評だ。▼『シルバービュー荘にて』は、ジョン・ル・カレの遺作。詳細は『スパイ小説の世界』(作品書評の「裏切り」というカテゴリー)に掲載しているので、そちらを参照されたい。▼『タタール人の砂漠』は、辺境の砦でいつ来襲するか分からない敵を待ち続ける主人公の緊張と不安を描いたカフカ的な作品。〝タタール人〟というキーワードと幻想的なカバーイラストに惹かれて買った。▼『小説8050』は、80代の親がひきこもり状態にある50代の子の生活を支える「8050問題」を描いたもの。林真理子といえば、かつてベストセラーになった『ルンルンを買っておうちに帰ろう』に代表される明るくユーモアタッチの作品を描く作家というイメージがあったが、この小説は現在の我が国が抱える社会問題に真っ向から向き合ったシリアスな作品だ。▼『64(ロクヨン)』は、ミステリー界を席捲した警察小説の最高傑作といわれるものなので、一度は読んでおこうと思った。これまでの警察小説では取り上げられたことのなかった刑事部VS警務部という組織内の対立を描いた点が斬新である。▼『春にして君を離れ』は、ポアロもマープルも登場しないばかりか、殺人事件すら起こらないアガサ・クリスティがメアリー・ウェストマコット名義で書いた作品。優しい夫、良き子供に恵まれ満ち足りた身の主人公が、旅の途中で、これまでの家族との会話を思い起こし、自分は「誰からも好かれていないどころか、全員に疎まれている」(『名作なんて、こわくない』柚木麻子)ことに気づく〝怖い〟作品である。▼『二人の妻を持つ男』は、社長の娘と結婚し幸福な生活を送っていた主人公が、ある日、偶然、別れた妻と再会した日から、すべてが狂い始め、ついに殺人事件が起こるサスペンス小説の傑作。結末は意外性に富んでいると同時に物悲しい。▼3位の『殺意』と2位の『クロイドン発12時30分』は、ともに倒叙推理小説の二大古典名作。この二冊も一度は読んでおきたかった作品。フレンチ警部の粘り強い捜査によって、犯人の鉄壁なアリバイを論理的に崩していく後者品の方が筆者には面白かった。◆キム・フィルビーを取り上げた書籍は数多く出されているが、ベン・マッキンタイアーの『キム・フィルビー』は彼の「人となりや性格、これまで詳しく論じられることのなかった、いかにもイギリス人らしい人間関係がテーマ」(本書はしがき)となっているところに特色がある。9月1日付のブログで、スパイは人たらしであることを書いているが、キム・フィルビーの〝人たらし〟ぶりがどんなものであるかを本書は余すことなく記している。

 現在、筆者の年齢は64歳。元気で本が読めるのも、後、20年はないだろう。昨年末のブログで書いたように、それならば新作に手を出すより、名作や傑作としての評価が定まっている作品を読もうという思いから、今年はミステリーの古典的名作と言われる作品を意識的に読んだ。案にたがわず、期待外れの作品はなかった。2025年も引き続きこの方針を踏襲するが、さて、第一作目は何から読もうか。

2024.11.10 トランプ氏再選の根底にあるもの

 今回のアメリカ大統領選でドナルド・トランプ氏が再選された。選挙前の大方の予想は民主党のハリス氏との大接戦だったが、蓋を開けてみると、誰の眼にもトランプ氏の勝利が明らかな結果に終わった。

 なぜアメリカ国民はトランプ氏を選んだのか。バイデン政権下での長引く物価高と不法移民への不満がトランプ票へ投じさせたというのがマスコミの見立てであるが、ハリス氏が「黒人」であり、かつ「女性」であったことも無視することはできない。アメリカ大統領は、オバマ氏という例外はあったものの、建国以来、一貫して白人であることが不文律であるかのような「白人至上」が根強く残っている。有色人種が大統領になるのは極めて難しい。そして、かつてヒラリー・クリントンが阻まれ、今回も突き破ることができなかった〝ガラスの天井〟という女性を阻む見えない障壁が最後にハリス氏の前に立ちはだかった。ヨーロッパでは女性の首脳も活躍しているというのに、アメリカで、それが実現しないのは、アメリカが開拓の国だからであろう。開拓時代からのDNAである「正義は自分の力で守る」という国民性がガンマンのような強くて男らしい指導者を好む傾向を生んでいるのだ。

 アメリカだけに限らず、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、イスラエルのネタニヤフ首相、北朝鮮の金正恩総書記など、主な世界各国の指導者は、皆「強さ」を体現した人物である。

 「強さ」を体現する指導者は大衆に好まれる。人はなぜ強いリーダーに惹かれるのか? おそらく動物として本能からだろう。ボス猿は群れに外敵が迫った時に身を張って戦い、オオカミのリーダーも率先して獲物を追いかける……群れで暮らす動物のリーダーは自分たちの安全を守り、食べ物にありつかせてくれる頼れる存在なのだ。人間社会においても、特に生命が脅かされているような社会では、ボス的人物がリーダーになる傾向が強い。こうしたリーダーは往々にして好戦的で独裁的な人物であるが、国民にとっては、自分たちの安全と生活を保障してくれれば、それで構わない。民主主義を希求するのは、余裕のある成熟した社会でなればこそなのだ。アメリカ国民は生命を脅かされているわけではないが、トランプ氏は「不法移民にアメリカが侵食されている」、「外国資本に国内産業が乗っ取られる」と不安を煽り、それらを外敵と見立てて脅威の幻想を抱かせ、それに立ち向かう強いリーダーたる自分のイメージを植え付けたのだ。

 トランプ氏の勝因の根底には、人間を含めた万物の動物に共通する、〝強いボスに惹かれる〟という本能があると思う。

2024.10.14 映画「プライベート・ライアン」

 過去の名作映画を映画館の大スクリーンで上映する「午前十時の映画祭」。今回は1998年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を観た。公開当時、筆者は東京に単身赴任しており、日曜の朝、新宿の映画館でこの作品を観たことを覚えている。

 1944年6月、連合軍によるノルマンディー上陸作戦。海岸でドイツ軍の激しい機銃掃射を受け、手足を吹き飛ばされ、炎に包まれる連合軍の兵士たち。血しぶきが飛び散り、海水は血の色に染まる。まるで戦場に放り込まれたような圧倒的な臨場感は、映画館ならではものだ。

 何とか上陸に成功したミラー大尉の部隊は、息つく間もなく、前線で行方不明になったライアン二等兵の救出命令を受ける。ライアン家は4人の息子のうち3人が相次いで戦死しており、軍上層部は末っ子のライアンだけでも故郷の母親の元へ帰還させようと考えたのだ。ミラー大尉と彼が選んだ7人の兵士たちは、1人の兵士を救うために、命が危険にさらされるフランス内陸部へと向う……。 

 途中、何人かが命を落とすが、ついにミラー達は、ある橋の袂でライアンを見つける。しかし、ライアンは仲間を置いて自分一人だけ帰還することを拒んだ。このため、ミラー達はライアンらと共に少ない兵力でドイツ軍の戦車を迎え撃つことにした。しだいに近づいてくる戦車の地響きが映画館の床を震わすかのような迫力である。やはり、この映画は映画館で観るべき作品なのだ。

 激しい戦闘により、ミラー大尉は胸に銃弾を受ける。そばにいたライアンに対して、ミラー大尉は息も絶え絶えに「無駄にするな。しっかり生きろ」と言い残して亡くなる。

 「無駄にするな」とは、言うまでもなく、ライアンを救出するために命を落とした兵士たちのことである。彼らの命を無駄にしないように、一所懸命に生きろとミラー大尉は言い残したのだ。

 震災や飛行機事故などで、多数が亡くなる中、奇跡的に助かる人がいる。生と死は紙一重。正に神様の思し召しとしか言いようがない。おそらく、助かった人たちは、自分の命は「神様に活かされた命」、そして「亡くなった人たちの分も頑張って生きよう」と思うに違いない。

 翻って筆者の場合はどうだろうか? 幸いにして、誰かの代わりに自分だけが助かるような非情な経験はないが、それでも今日まで大きな不幸に見舞われることもなくやって来られたのも、神様の思し召しであろう。自分はそれに応えるため、しっかり生きてきただろうか? 映画を観て、あらためて、そんなことを思った。

2024.9.29 スパイは犬を連れて

 毎年、お盆と年末に小学生時代の同級生だった四人で集まって食事会をしている。その中でK君だけ小学校の当時から変わらず五十年以上、今も同じ地元で暮らしている。そのため、「あの店はどうなった?」「あいつは、どうしている?」「俺たちが卒業したY小学校の校舎はあのままか?」等々の質問に答えるK君の話しで場は盛り上がる。

 K君は自分が住んでいる町内だけでなく、小学校の学区範囲内全地域のことまで、実によく知っている。その理由は犬の散歩である。K君によれば、犬も飽きるだろうから、時々、散歩コースを変えて、隣の町内さらにその隣の町内まで犬を連れて歩くそうだ。犬の散歩でなければ、用事もないのに一人でうろうろと隣町まで歩くことはないだろう。また、犬を連れているから、昔、同級生が暮らしていたと思われる家の門柱の表札を確かめても、怪しまれることはない。そればかりか、道端や公園などで犬を連れた他の知らない人と出会っても、犬同士が反応するので、犬を介して自然に相手と会話を交わすことができる。元々人当たりの良いK君であるが、犬を介して、色んな人と話をし、そこからも耳寄りな情報を得ているのだろう。正に犬の散歩は情報探索するうえで、うってつけの方法である。

 実際、スパイの世界においても彼らのスパイ活動をカモフラージュするため、犬を連れている例を見ることができる。

 例えば、『人間の絆』や『月と六ペンス』で知られる文豪サマセット・モームが書いたスパイ小説『アシェンデン』。その中に収められている『裏切り者』という一遍は、妻と愛犬を伴ってスイスのルツェルンに滞在しているイギリス紳士ケイパー(実はドイツへ通じているスパイだった)に主人公のアシェンデンが接触して、イギリスへ寝返らせようとする話しである。ホテルのレストランで見かけぬ人物(アシェンデンのこと)がいるので、用心深いケイパーは相手が何者あるか探りを入れるため、愛犬の紐を解いた。すると愛犬は丸くなって走って来ると、嬉しそうにアシェンデンに飛びついた。「こっちへおいで、フリッツィー」とケイパーは大声で呼びかけてから、アシェンデンに言った。「どうもすみません。とても大人しい犬なんですが」(中島賢二、岡田久雄訳)こうして、スパイのケイパーはアシェンデンと自然に会話を交わすきっかけを作ったのである。

 もう一つ例は、元イスラエル国防軍情報部准将エフタ・ライチャー・アティルが自身の経験を元に描いたスパイ小説『潜入―モサド・エージェント』。その中で、これから敵地に潜入しようとする主人公の女性諜報員レイチェルに対して、上司のエフードは「きみは犬を飼うべきなんだ。犬がいれば、きみは地元に根を下ろしているというイメージが高まるし、立ち入り禁止の地区に入っても、犬を愛するあまり注意書きを見落としてしまったという言い訳ができる」(山中朝晶訳)とアドバイスしている。

 ことほど左様に犬を連れて歩くことはスパイ活動に役立つものだ。さて、今日もK君は犬を連れて地元の町内を歩いていることだろう。今度、会ったら、クラスにいた賢くて可愛いかった、あの女の子がどうなっているか尋ねてみよう。

2024.9.1 スパイは人たらし

 前回のブログで取り上げた『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』の文庫版を読んだ。

 キム・フィルビーは「相手の心に愛情を、いとも簡単に吹き込んだり伝えたりでき、そのため相手は自分が魅力の虜になっているとは、ほとんど気づかないほどだった。男性も女性も、老いも若きも、富める者も貧しき者も、誰もがキムに取り込まれた。(中略)立ち振る舞い実に見事で、常に誰よりも早く飲み物を差し出し、相手の母親が病気なら誰よりも早く具合を尋ね、子持ちなら子供の名前を誰よりも早く思い出した。笑うのが大好きな上に、酒を飲むのも人の話しを聞くのも大好きで、しかも聞くときは心の底から真剣に、興味津々になって聞いた」(小林朋則訳)という魅力的な人物だった。

 こういう人たらしの男だったからこそ、МI6の盟友ニコラス・エリットや、CIAの対情報部門の責任者だったジェームズ・アングルトンは、心を許して何でも(その中には重要な機密情報も含まれている)キム・フィルビーに話し、それがそのまま彼によって、ソビエトへ伝えられていたのである。

 スパイ活動の要は相手から情報を探り出すことである。そのためは相手と親しくなる必要がある。ニコラス・エリオットは後年、情報将校にとって「友人を作る能力はとりわけ重要な資質である」、「現場での膨大な量の情報活動は、とにかく個人的な関係を築くことに尽きる」と語っているが、キム・フィルビーは、正にこれの最たる例といえよう。

 キム・フィルビーに限らず、優れたスパイは、総じて人たらしである。第二次世界大戦下の日本で諜報活動を行っていたソビエトのスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、大酒のみで女たらし(人たらしは女性にモテる)だったらしい。また、冷戦時代、ベルリンにあるソビエト施設の床下に英米が設けた「盗聴用トンネル」をソビエトに密告し、東ドイツ国内における対英協力者の名簿を持ち出したイギリスのスパイ、ジョージ・ブレイクは、「ハンサムで背が高く、立ち振る舞いは実に見事で、どこへ行っても人気のある男」だったという。さらには、第三次中東戦争の最中、五千名のエジプト人捕虜との交換で釈放されたモサドの英雄・ウォルフガング・ロッツは、エジプト社交界の寵児と言われた人物だ。

 スパイといえば〝根暗〟や〝裏切り者〟などネガティヴなイメージを抱きがちだが、実際は正反対なのだ。あなたの身の回りにいる明るくて誰からも好かれているあの人は、実は最もスパイに向いている人物なのである。

2024.8.4 同じ本を二回買う

 書店の書棚に並ぶ文庫本を見て回っているとき、「しまった」「チクショー」と思う時がたまにある。それは、ある作品を既に単行本で購入していて、同じ作品が文庫本で出ていたときである。今回、取り上げる『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』(ベン・マッキンタイヤー著/小林朋則訳)は正にその典型例。

 同書は2015年5月に中央公論社から出版された。内容も資料写真も充実しているので、スパイ小説の書評家を自認している筆者として、絶対に読んでおきたい本だ。それに、こうしたスパイを取り上げた書物はあまり売れることはないから、間違いなく、数年後には絶版になっている可能性が高い。「(売れそうにない)欲しい本は、出会った時に買っておけ!」というのが筆者の苦い経験から得た教訓なので、躊躇することなく、その場で購入した。

 それから、9年後の2024年、同書の文庫本(中公文庫)が出た。筆者の読書スペースは――週末にスターバックスで集中して読むものの――普段は朝晩の通勤電車の車内が主である。コンパクト(単行本のサイズは四六判、文庫本はA6判)で、片手だけ(雨の日に電車の中で立っているときは、左手で傘を持ち、右手で本を持つ)で持っても負担にならない重さ(同書の単行本は611g。文庫本はその半分の320g)、しかもカバンの中に入れてもかさ張らない文庫本は、正に通勤の友である。

 従って、同じ本が単行本と文庫本の両方で出ている場合、絶対に後者の方を買うことにしている。ただし、今回は既に単行本を買っている。書店のブックカバーを付けた状態で我が部屋の本棚に9年間も積ん読(ツンドク)状態で置かれたままであるが、いずれ読むことは間違いない。無駄遣い(因みに文庫本の値段は 1,650円もする!)をしたくなかったので、文庫本は買わなかった。

 いずれ読もうと思いながらも、単行本の『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』を読み始めることは、なかなか、なかった。何度か手にするのだが、やはり、その大きさと重さでうんざりしてしまう。しかし、目次をパラパラめくっていると、興味ある内容ばかりだ。その結果、無駄遣いになると分かってはいたが、先日、ついに文庫版を買ってしまった。

 部屋の本棚に単行本と文庫本の『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』が並んでいるのを見ると、「もっと早く文庫版が出版されていたら」、「単行本と出会う前に文庫本に出会っていたなら」という思いがする。

 先日、ジョン・ル・カレの『パナマの仕立屋』の新刊の文庫本(ハヤカワ文庫)が書店に並んでいるのを見た。筆者は1999年に集英社から出版された単行本で既に(2015年7月に)読んでいるので、さすがに文庫本版を買うことはないが、やはり、キム・フィルビーの本と同じように、もっと早く文庫本になってほしかったという一抹の口惜しさはある。

2024.7.14 ノイズは雑音ではない

 妻と息子は新聞をほとんど読まない。そのことを彼らに指摘すると、「わざわざ新聞を見なくてもネットで世の中のことは分かるから」、挙句の果ては「お金がもったいないから、この際、新聞をとるのをやめたら」とまで言ってくる。

 確かに紙媒体の新聞を読まなくても、5大新聞はそれぞれ電子版を発行しているので、パソコンやスマホでそれらを読むことができる。しかも、Yahoo!ニュースなどであれば無料だ。加えて紙媒体のように物理的に溜まることがないので、古新聞として定期的にゴミ出しする必要もない。しかしである。だからと言って、筆者は紙媒体の新聞を購読するのをやめはしない。

 ネットニュースは自分の興味あるニュースしかクリック(=読む)しないので、興味のないニュースは入ってこない。それに対して紙媒体の新聞は、めくったそれぞれの紙面に載っている興味のないニュースも自然に目に入ってくる。三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)によれば、このような、偶然、目に入って来る予期しない情報を〝ノイズ〟と呼ぶそうだ。

 筆者が新聞の書評欄を読むのが好きなのも、正にこのノイズがあるから。新聞の書評欄は3~4頁で構成しており、紹介しているジャンルは、文芸、ノンフィクション、エンタメ、社会科学、自然科学など幅広い。書評欄の紙面を広げると、否が応にも、タイトルやキャッチコピーが目に入って来るので、普段、読まない社会科学や自然科学分野の本であっても、思わず興味をそそられ、場合によっては書店で買い求めることがある。 

 一方、ネットの書評ではそうはいかない。検索するのは興味がある本なので、興味のない本は引っかかってこない。

 古書を求める場合も、ノイズがあるから古書店や古本市へ行くようにしている。古書店や古本市で求めている本が見つかる可能性は極めて低い。むしろAmazonや古本専門のサイトで探した方が見つかる確率は高い。

 しかし、古書店や古本市で書棚を眺めていると、知らなかった、予期しなかった本(即ちノイズ)に出合う可能性がある。これが最大の魅力である。筆者の最も好きなスパイ小説であるR.ライト・キャンベルの『すわって待っていたスパイ』も、まさに古本市で出会ったノイズなのである。

 筆者にとってノイズは雑音ではなく、宝が埋もれている砂利土なのだ。

2024.6.9 次に読みたい本を楽しむ

 土曜日の朝は新聞の書評欄を読むのが楽しみである。筆者が購読している朝日新聞の場合、書評欄は4~5頁で構成しており。紹介している本のジャンルは、文芸、ノンフィクション、エンターテイメント、社会科学、自然科学など幅広い。勿論、全てに目を通すわけではない。小説の書評は読むようにしているが、他のジャンルについては興味を惹いたものだけである。

 書評に目を通して、読みたい本があった場合どうするか? 以前は忘れないように、名刺大のカード用紙に、タイトル・著者名・出版社名をメモして財布に入れていた。そして、書店に行ったときに、そのカードを財布から取り出して、そこに載っている買いたい本リストのメモを見ながら、欲しい本を探すのだ。

 リストには過去に買おうと思ってメモし、まだ買っていないものも並んでいる。特に古典になっているような小説は、恒常的に書棚に置かれているので、すぐに買う必要はなく、長らくリストに載ったままである。一方、買い済みの本やリストに載せたものの、途中で興味が失せた本は二重線で消されている。

 読みたい本は次々と増えるが、カードは財布に入れるので、一枚にしておきたい。そのため、途中から二重線ではなく、ホワイトの修正テープで消して、その上から新たに買いたい本を記載するようになった。その結果、カードは何回も上から貼られた修正テープでゴワコワした状態になっていた。

 スマホが普及した現在、買いたい本はカードへの記載に代わって、スマホの写真で、タイトル・著者名・出版社名が分かる箇所を撮っている。買いたい本は書評欄だけでなく、書店の立ち読みを通じても出てくるので、忘れないよう、その場で表紙を(店員に見つからないようにして)写真に撮っている。

 筆者のスマホのフォトライブラリには「本」という名のアルバムがあり、そこに、これから読みたい本の写真が収められている。そして、ときどき、それらを見ながら次はどの本を買おうかと、密かに楽しんでいる。

2024.5.12 みやこめっせ古書即売会

 このゴールデンウィーク(5月4日)に京都市の岡崎公園近くにある〝みやこめっせ(京都市勧業館)〟で開催されていた「第42回春の古書大即売会」(主催:京都古書研究会)へ行ってきた。

 京都を中心に大阪、奈良、三重などから約30の古書店が参加し、1900㎡(因みに小学校の体育館の平均面積は約700㎡)の会場スペースいっぱいに、古典・学術書・美術書・小説・雑誌・マンガなど様々なジャンルの古書が50万冊以上並ぶ、屋内で行われる即売会としては国内最大規模のものだ。

 11時に会場に着き、入口近くの棚からローラー作戦のようにして見ていく。気が付くと、もう14時。昼ごはんを食べるため、出かける前にチェックしていた会場近くにある老舗の蕎麦屋へ行った。しかし、快晴のゴールデンウイークの観光地とあってか、この時間帯でも店の庭先には客待ちの行列ができていた。そこで、第二候補の蕎麦屋へ行くが、ここも、第一候補の店ほどではないが、数組の先客が並んでいた。

 即売会の終了時間は16時半。午前中3時間掛けても、まだ3店舗分しか見ていない。蕎麦屋で食事をしていたら、見る時間が足りなくなるで、ワゴン車で販売していたオニギリを一個買って、近くのベンチで食べ、14時半に再び即売会の会場へ戻った。

 午前中のように棚を一つ一つチェックしていたら、終了時間までに半分も見ることができない。筆者が求めているのは主に海外の古いミステリーなので、文庫本(文庫本の横にはポケミスも置かれていることが多い)だけに的を絞ってチェックすることにした。

 この即売会の最大の欠点は会計システムである。それぞれの参加店舗で会計を済まさなければならないので、買おうかどうか迷っている本があっても、それを持ったまま他の店舗の棚を見て回ることができない。その場で買うか、一旦、保留にして全ての棚(但し、文庫本だけ)を見終わってから、やはり欲しい場合に、もう一度、この棚に戻って買うしかない。しかし、戻ってきたときには、往々にして既に売り切れているものだ。そうでなくても、広い会場内で、その本がどの棚にあったか正確に覚えておくのは難しいし、そもそも保留にしている本自体についても3~4冊なら記憶していられるが、それ以上になるとあやしくなる。

 その点、かつて関西古書研究会が大阪市・京橋にあるツイン21のアトリウム(600㎡)で開催していた〝ツイン21古本フェア〟は、一か所に総合的な会計レジがあったので便利だった。迷っている本があれば、とりあえずプラスチックの買い物カゴ(会場内に用意されていた)に入れて、他の棚を見て回り、会計する前にカゴの中の本を再検討。本当に欲しいもの以外は元の棚に戻してから会計すればよかった。

 本の一冊一冊に店舗名と価格が記された栞のような値札を挟み、レジで回収した値札を店舗ごとに分けて売上を分配するなど、個別の店舗ごとで会計をする方法より、主催者や参加店舗にとって手間がかかることは確かである。しかし、目ぼしい本があったら、とりあえずカゴに入れて会場内を見て回り、後でカゴの中から本当に欲しい本を絞ることも、筆者にとっては、古書即売会の愉しみの一つである。

 京都古書研究会が夏に下鴨神社、秋に知恩寺で開催する古書即売会は、屋外の境内で店舗ごとにテントを張って行われるものなので、それぞれの店舗ごとで会計をするのは納得がいく。しかし、屋内のワンフロア―で開催される、みやこめっせでの即売会では、何とか統一したレジの導入を検討してほしいものだ。

 結局、この日は島木健作の『赤蛙』(新潮文庫・復刊版)、フランシス・リックの『危険な道づれ』(ハヤカワ・ポケミス)、スタンリイ・エリンの『九時から五時までの男』(ハヤカワ文庫)の三冊を買い、4時頃に会場を後にした。