2025.11.3 最近の車について

 20年以上乗っていた我が家のトヨタ・ヴォクシーがかなり痛んできたので、この9月に新しい車に乗り換えた。乗り換えた新しい車はホンダのフリード。

 家の駐車場は狭いので、後席の扉を外に広げなくても開け閉めできるスライドドアは大変便利だ。また、時々、義母や孫を乗せるので、天井が高くて開口部の広い車の方が乗り降りも楽にできる。もう若くないので車にカッコ良さや速さなどは求めていない。重視するのは機能性や利便性だ。

 子どもたちが独立し、普段は妻だけを乗せるので、後継の車はヴォクシーでは大きすぎる。そうかと言って、軽自動車ではパワーが足りない。たまに孫たち家族が遊びに来た時に4人しか乗れないのは不便だ。普段は4人乗りだが、いざというときに6~7人が乗ることができる小ぶりなミニバンとなると、選択肢はトヨタのシエンタかホンダのフリードしかない。前者は3気筒エンジンであり、奇をてらった外観も好きになれない。4気筒エンジンで スクウェアなフォルムのフリードを選んだ。

 さて、納車されて2カ月になるが昭和世代には戸惑うことが多い。今まで駐車中にFMラジオを聴いたり、テレビを見たりする場合、バッテリーがあがるのを防ぐため、アイドリングしていたが、ハイブリッド車は駐車しているときに全くエンジン音がしないので、不安になる。(賢いもので、バッテリー量が足りなくなると、自動的にエンジンがかかる)また、シートベルトを着用していないと発進できないようになっている。シートベルトの非着用による重大な事故の危険性を減らすための安全措置であるか、家の駐車場で車を少し前後させるときもシートベルトを着用せねばならず、少し面倒くさい。薄暮や夜間に無灯火で走行するのを防ぐため、走りだすとヘッドライトが自動的に点灯するようになっている。しかし、渋滞中のノロノロ運転のときも点灯している。そんなときはウィンカーレバーについているヘッドライトのスイッチを都度都度OFFにすればよいのが、それなら昔の車のように初めから手動でライトをON/OFFするようになっている方がよい。

 その他、Honda SENSINGという機能により、誤発進抑制、後方誤発進抑制、ブレーキ踏み間違い衝突軽減システム等々、至れり尽くせりの安全対策が施されている。そういう事故が(特に高齢ドライバーには)多いので、それを防ぐために設けられたものであるが、逆にこういのに頼っていると運転技術が退化してしまうのではないかと危惧する。極端なことをいうと、オートマ車も同様で、人間、楽をすると、ついボーっとしてしまい、また逆に咄嗟の場合、アクセルとブレーキの踏み間違いを起こしてしまうのだ。その点、マニュアル車は渋滞時や坂道発進のときに面倒であるが、手と足(しかも、アクセルとクラッチを同時に調整)を忙しく動かさねばならないので、ボーっとする間はないし、アクセルとブレーキを踏み間違うこともない。

 スタートボタンを押して、シフトレバーをドライブモードに入れてペダルを踏むと、フリードは音もなくスっと発進する。快適であるが、車を運転しているという感覚ではない。まさに移動モービルである。

 イグニッションキーを回して、クククという咳こんだ音の後にエンジンが始動し、クラッチを踏んで、シフトレバーをニュートラルから一速に入れ、クラッチをゆっくり戻しながら、同時にアクセルを踏んで車を発進させる……独身時代に乗っていたマニュアル車のアナログチックな手順が懐かしい。

2025.9.7 潜水艦に関する本

 筆者は、ある本を読んでそれが気に入ると、しばらく、その本と同じテーマや世界を描いたものを読む傾向がある。今、読んでいるのは潜水艦に関する本。これを立て続けに読んでいる。

 最初の一冊は『我ら海中自衛隊』(小峰隆生著、並木書店)。潜水艦そのものではなく、潜水艦の乗組員である個々の自衛官を取材したところに興味を持った。その次は『兵士を追え』(杉山隆男著、小学館)という、これも同じく海上自衛隊の個々の潜水艦乗りを取材した510頁にもなる大作であり、二十年ぶりに読み返した。

 筆者は十九歳の頃、たった二カ月余りだったが自衛艦(護衛艦ながつき)に乗り組んでいた。潜水艦乗りは、狭い空間で四六時中、仲間と顔を合わせているためか、水上艦に比べて温和でコミュニケーション能力のある人が多いと言われている。二か月間、先輩たちに怒鳴られっぱなしだった筆者にとって、言葉を荒げる人が少ない潜水艦内の雰囲気に憧れを抱く。また、潜水艦はいったん海の中に潜ってしまえば、波に揺られることもない。冬の日本海の荒波で船酔いに苦しんでいた筆者にとって、これは大変魅力である。さらに警戒態勢に入ると、当直の者以外は皆、音を立てないようベッドに入って寝ているか、横になって静かに本を読んでいるしかいないという潜水艦勤務は、読書好きの筆者にはうってつけかもしれない。この二作を読んでいると、もし、護衛艦ではなく潜水艦に乗り組んでいたら…とつい思ってしまう。

 しかし、教育隊での基礎訓練の終盤、それぞれの専門職種を希望する時、筆者は今、挙げたような潜水艦勤務の実態を知らなかったし、そもそも海上自衛隊に入隊したのは、水平線の大海原を見渡すことができる船乗りに憧れてのこと。端から潜水艦を希望する意志はなかった。それに――これが最も肝心なことであるが――筆者は耳抜き(潜水時に生じる水圧の変化に対応するため、中耳と外耳の気圧を調整する能力を評価する検査)が出来なかったので、仮に希望していても叶わなかったはすだ。

 『兵士を追え』の次は、『Uボート、出撃せよ!』(アレクサンドル・コルガノフ著、ハヤカワ文庫)を読んだ。これは、1939年10月14日払暁、侵入不可能と言われたイギリス海軍の牙城スカパ・フロー湾にUボート単身で潜入し、イギリス海軍が誇る戦艦ロイヤル・オークを撃沈させたUボート艦長の英雄、ギュンター・プリーン大尉を主人公としたドキュメンタリー小説である。

 筆者の大好きなスパイ小説『すわって待っていたスパイ』(R.ライト・キャンベル著、角川書店)は、これを材に得た小説である。『Uボート、出撃せよ!』の中で、スカパ・フロー湾の状況について「既に諜報によっても多数の艦艇が停泊中であることは知らされていたけれども…」という一文がある。『すわって待っていたスパイ』の主人公(居酒屋の店主を隠れ蓑としたドイツ人スパイ、ウィルヘルム・ウルター)は作者の創造した人物であるが、『Uボート、出撃せよ!』のこの一文から、彼と同じように島民に化けてスカパ・フロー湾の様子を探っていた名もなき実在のスパイに思いを馳せた。

 『Uボート、出撃せよ!』を読み終えた現在、絶体絶命の死地から幾度も生還し、〝生命保険〟の異名をとったUボート艦長が自らの体験を描いた『Uボート・コマンダー』(ペーター・クレマー著、ハヤカワ文庫)を読んでいる最中である。

2025.8.12 田山花袋の『蒲団』

 彼女と別れてひと月ほど経ったある日曜日の午後、車を洗っていた僕は座席についている一本の長い髪の毛を見つけた。細くてやや茶色っぽい髪の毛、まぎれもなく別れた彼女の髪の毛だ。 週末の晩、よく二人でこの車の座席から夜景を眺めたが、おそらく、そのときについたものだろう。

 まだ彼女に未練の残っていた僕は、写真や貰ったプレゼントに彼女の面影を求めていたが、髪の毛という、いわば彼女の体の一部であるその痕跡は、より一層、面影を濃厚にし、僕の心をこのうえもなく切なくした。そっと髪の毛に鼻を近づける。ツンと鼻にくる甘酸っぱい匂いは、なつかしい彼女の匂いだ。目を閉じると、まだそこに彼女がいるような錯覚に陥る。僕はその髪の毛を大切に机の引き出しの奥にしまいこみ、淋しい夜、眠れない夜には、密かにそれを取り出し、思い出に耽ったものである。

 読んだわけではなかったが、そんな自分の姿が、田山花袋の『蒲団』に重なった。
「去っていった女弟子の体臭が染みついた蒲団に、彼女の面影を求めてむせび泣く中年男の内面を描いた自然主義文学の代表的作品」高校時代、Tという、しょぼくれた感じのする国語教師がそう紹介したとき、何となくその教師と主人公がダブったので、そこのところだけ印象に残っていた。

 早速、買って読んでみる。身につまされるとは、まさにこのことだろう。明治であれ、平成であれ、女に未練を持つ男の気持ちに変わりはない。――あれから五年、別れた彼女は今、僕の妻になっている。今では、あの頃のロマンティックな思いはすっかり色あせ、洗面台にブラッシングしたときに抜けた彼女の髪の毛が落ちていると、「おい! 髪の毛が落ちている。汚い!」と怒っている有様だ。彼女の髪の毛に涙した僕はどこへ行ってしまったのか。
(ダ・ヴィンチ12月号・創刊8号〔平成6年12月〕「読者が選ぶ私の一冊」に『女に未練を持つ男の気持ちはいつの世も変わらない』という見出しで掲載された筆者の投稿文より)

2025.7.13 スパイは既に潜伏している

 イスラエルが6月13日にイラン各地の核関連施設や軍事拠点を標的にした大規模な攻撃を行ったことが新聞等で報じられていた。

 6月15日付の朝日新聞によれば、イラン国内に潜伏していたモサドの工作員がミサイル拠点の周辺に特殊装置を設置し、その装置に誘導された無人機(爆発物を搭載)によってイランの弾道ミサイル発射装置を狙撃。また、空爆と並行して地上での特殊作戦でレーダー施設なども破壊した。これらの攻撃によってイランの反撃能力を削いだ後、イラン革命防衛隊幹部や核開発に携わる科学者がいる場所を次々とピンポイントで空爆し、殺害している。

 このことは何を物語っているのだろうか。イスラエル国家安全保障研究所のシマ・シャイン上級研究員は標的に対する情報収集のため「モサド工作員の潜伏など、準備に数年の時間がかかった」(朝日新聞)と語っている。

 この数年の間、イスラエルとイランは、少なくとも表面上、争いはなかった。しかし、イスラエルにとって核を保有するイランは潜在的な脅威。イランへ工作員を潜入させることはイスラエルにとって国家存続のため不可欠だが、両国の間が険悪になってから潜入させるのは困難である。このため、相手国の警戒レベルが比較的低い時期から密かに工作員(スパイ)を潜入させ、情報収集を行い、あるいはXデーに備えて準備してきたのだ。

 こうした敵国の組織(政府、軍隊、諜報機関など)へ潜入し、その組織内の機密情報を密かに自国へ伝えるスパイのことを「モグラ(又はモール)」と呼ぶ。また、敵国へ潜入し、本国からの指示があるまで、一般市民として普通に暮らし(即ち、眠っている)、指示をきっかけに眠りから目覚め、破壊工作や暗殺を行うスパイを「スリーパー」という。イランの核施設や軍事施設へイスラエルのモグラやスリーパーが、かなり以前から潜入していたのである。

 これは他の国々においても同じである。ウクライナに多くのロシア側のモグラやスリーパーが潜入していることは想像に難くないが、ウクライナ側もロシアに潜入させているはず。西側諸国のウクライナへの支援が低調になっている現在、ウクライナはロシアに押され気味だが、たまにウクライナがロシア領内の施設を爆破させたというニュースを聞く。その陰にはロシアに潜入しているウクライナのモグラやスリーパーの暗躍があるのだ。

 欧州共同体の国々にとっても、彼らは決して認めないだろうが、例えばフランスの情報機関内にドイツのスパイが潜り込んでいるし、その逆もしかりである。確かに、かつてヒトラーがフランスを攻め込んだようなことは、戦後のドイツにおいはてあり得ないことだろう。しかし、攻め入る意志はなくとも、近隣諸国の内部にスパイを潜り込ませて情報を探ることは国の安全保障上、欠かすことができない。

 翻って我が国はどうであろうか。〝スパイ天国〟(スパイが潜入しやすい、潜入しても命の危険は極めて低いとう意味)と揶揄される日本には、ロシア、中国、北朝鮮のスパイだけでなく、同盟国のアメリカのスパイまでもが潜入している。しかし、それは昨日今日に始まったことではない。我々が気づく(ほとんどは気づきもしない)ずっと前から、彼らは我が国の主要な機関へ既に浸透しているのだ。

2025.6.17 長嶋茂雄 逝く

 2025年6月3日、長嶋茂雄が亡くなった。享年89歳。言わずと知れた球界を代表するスーパースターである。

 屈託のない明るい性格、華麗なるプレーで、これほど国民に愛された野球選手はいないだろう。「ジャイアンツは嫌いだが、長嶋は好きだ」という人も多い。

 長嶋が亡くなった直後、各テレビ番組で彼と縁があった野球選手たちが長嶋の想い出を語っていた。野球のプレーは勿論のこと、野球に対する姿勢も超一流だが、一方、日常生活では、チョッと抜けていたところもあり、聴く者を微笑ませる。

 相手の名前を間違えることは日常茶飯事。アメリカに到着したとき「外車が多いなぁ」と呟いたというエピソード。監督時代、選手を鼓舞する時、「決してあきらめるな! 人生はギブアップだ」と言ったエピソード。極めつけは、息子の一茂と一緒に後楽園球場へ野球観戦に出かけた長嶋は試合に夢中になり、息子を球場に置き忘れて帰ったというエピソード…等々、この種の長嶋伝説は尽きない。

 しかし、こうしたお惚け、天然ぶりだけでは、人は長嶋をこれほど愛するものではない。会った人を虜にするオーラ―があったのだろう。表裏のない真っすぐな性格、何事に対しても前向きで一生懸命な姿勢、そして、その一生懸命さから出る言動が相手を感激させるのである。

 例えば、6月8日の「サンデーモーニング」で放送していた張本勲の想い出――1976年に日本ハムから巨人に移籍した張本が巨人に加入する際に長嶋から言われた「オレの代わりをやってくれ」という一言。「ON」砲の片翼を欠いた巨人では、王貞治に対する他球団からのマークが集中していた。そのため、自分(=長嶋)の代わりの役割を期待して放った言葉であるが、それが張本をいたく感激させた。決して長嶋は、これを言ったら相手は喜ぶだろうなどと計算して言ったわけではない。この時も、王とタッグを組む主砲が真に欲しかったことから発した言葉なのだ。

 このブログでスパイは人たらしであることを度々述べている。(2022.7.24付「高倉健とスパイ」、2023.5.7 付「スパイとしても一流だった坂本龍馬」、2024.9.1付「スパイは人たらし」など)

 万人に好かれた長嶋茂雄も一流のスパイになれたのか? 答えは否(ノン)である。長嶋は人に好かれたが、決して〝人たらし〟ではなかった。人たらしとは、本来「人を騙すこと」、「人を欺く」という意味から分かるように、どちらかというと策(気配りも含む)を弄して、人を惹きつけることが上手な人というニュアンスがある。そういう意味において長嶋は決して人たらしではない。自分で意識しなくても、自然に振舞った言動が、結果として相手を惹きつけたである。

 それに、これだけ多くの天然ボケのエピソードを持つ人物が、一つのミスが命取りになるような不安と緊張の連続であるスパイ稼業が務まるわけがない。と言うか、そもそも長嶋茂雄は嘘をつくことができない人物だ。だからこそ、皆、彼のことを愛したのである。

2025.5.5 今年も、みやこめっせの古書即売会

 今年のゴールデンウィーク(5月4日)も、京都市勧業館〝みやこめっせ〟で開催されている春の古書大即売会に行ってきた。

 11時半に会場へ到着。昨年の経験から、文庫本に的を絞って、順番に各店の書棚を見ていく。一通り見終わったら13時半だったので、昼食を食べに行く。昨年はどこ店も観光客で混んでいたため、会場前でワゴン販売していたオニギリを買って、近くのベンチで食べたので、今年もそのつもりだった。しかし、二条通りを少し歩いたところにあるお好み焼き屋に待つこともなく入ることができた。昨年に比べて観光客が若干、少なかったことや、お昼時を少し過ぎていた時間帯もよかったのだろう。イカ玉とビール(小ジョッキ)を頼んだ。

 昼食後、再び会場へ戻る。文庫本は見終わって、欲しい本は購入済みなので、今度は主に海外文学の単行本を見ていく。各店の書棚を見ると、映画に関する古書が多いことにあらためて気づかされた。そういえば、他の古書会なども、映画に関する本が多い。

 結局、単行本では目ぼしい本がなかたので、3時に会場を跡にする。疲れたので、昨年も入った、少し気難しそうなマスターが経営している喫茶店でコーヒーとアップルケーキを食べた。知らない間に、うたた寝していたら、マスターに起こされた(やはり、気難しいマスターだった)ので、時計を見ると4時。店を出て帰路に就いた。

 結局、今年の即売会で買ったのは、以下の三冊(全て文庫本)である。

・アルノー・ド・ポルシュラーヴ&ロバート・モスの『スパイク』(ハヤカワ文庫)。マスコミによる情報操作を扱った、これまでにはないタイプのスパイ小説である。

・『風味豊かな犯罪』(創元推理文庫)は、一冊で本格推理、ハードボイルド、警察小説、スリラーサスペンス、スパイ小説が楽しめるアンソロジー集

・佐藤泰志の『海炭市叙景』(小学館文庫)は、過去に一度読んだことがあり、深い感動を覚えた文学である。

2025.4.6 息抜きに何をしますか

 4月5日付の朝日新聞・be on Saturdayで取り上げていた読者ランキング(be Ranking !!)のテーマは「息抜きに何をしますか」(回答者2548人。複数回答あり)

 第1位は「コーヒーやお茶を飲む」(1870票)、第2位は「テレビを見る」(1356票)、第3位は「散歩する」(1037票)、第4位は「本や雑誌、漫画を読む」(1003票)、第5位は「睡眠をとる、昼寝する」(936票)だった。

 筆者にとって土曜日に職場近くのお気に入りのスターバックスで本を読むのが至福のひと時であり、何よりの息抜きである。これだけで第1位と第4位の息抜きを行っていることになる。いやいや、それだけではない。スマホに保存しているお気に入りの楽曲をイヤホンで聴きながら、本を読んでいる。読書に飽きたらスマホでネットを見るし、目が疲れたら、ぼけーっとして、知らぬ間に寝ていることもある。お腹が空いたら、コーヒーをおかわりしてクッキーなどのデザートをつまむこともある。つまり、スターバックスで本を読むことで、第7位の「音楽を聴く」(858票)、第18位の「ネットサーフィンする」(404票)、第14位の「何もしないでぼけーっとする」(492票)、第5位の「睡眠をとる、昼寝する」(936票)、第9位の「おやつをつまむ」(820票)など8つの息抜きを無意識に実践しているのだ。

 読者ランキングには、この他にも、第8位の「クイズやパズルを解く」(850票)、第10位の「お酒、アルコールを飲む」(730票)、第12位の「適度な運動をする」(624票)、第13位の「入浴する」(577票)など、なるほどと思う息抜き方法があがっていた。番外編として面白かったのは、「夫は息抜きにとドライブに誘ってくれる。定年後、毎日お家にいるあなたが一人でお出かけしてくれる方が私の息抜きになるのよ!」という東京都在住の女性(68歳)の答え。思わず頬が緩む。

 この年齢の女性にとって、夫の存在はストレスであり、中には夫源病(夫の言動が原因でストレスが溜まり、妻の心身に不調をきたすこと)を患う主婦もいる。筆者の妻も、夕食後、筆者に早く自分の部屋へ引き上げてほしいようなことを言う。筆者がいつまでもグスグスと食卓に居続けると、好きなテレビも楽しめないらしい。

 しかし、それは夫にとっても同じこと。コーヒーを飲みながら本を読むことは家にいてもできる。しかし、家にいると、四六時中、妻のから小言を聞かされてストレスが溜まる。だから、筆者は、仕事が忙しいと言い訳して、週末にも係わらず。わざわざ電車に乗って職場近くのお気に入りのスターバックスへ行くのだ。

2025.3.9 書店の文庫本の並べ方

 書店の文庫本の書棚を見ると、たいてい出版社別に並べられている。しかし、蔦屋書店や個性的な街の本屋など、出版社を問わず作者別に並べている書店もある。どちらがよいのだろうか?

 出版社別の書棚は、作者を五十音に並べているので、探している本が見つかりやすいというのが最大の長所。また、書店にとって、売れ筋の本や補充が必要な本が一目で分かるので管理がしやすい。さらに出版社ごとに表紙や背表紙のデザインや色が決められているので、同じ丈・色の本が並び、書棚に統一感がある。

 一方、作者別の書棚は、好きな作家のまだ読んでいない作品を探すのに好都合だ。また、大型書店と違って、棚や本の数に限りがある小さな書店にとって、品揃えの少なさをカバーできることもメリットである。さらにセレクトショップの場合、どの作家のどの本を置くかなど、経営者の個性を出すこともできるだろう。しかし、これらの長所は見方を変えると、サイズや色がバラバラの本が同じ書棚に並び、統一感に欠けるという短所にもなる。

 出版社別と作者別、それぞれ一長一短がある。筆者の場合、探している本が明確な場合(出版社も分かっていれば尚更)、出版社別に並べられている書店へ行く。特に松本清張の作品の場合、棚差しプレートの「ま」行を探さなくても、新潮文庫なら赤色の背表紙、文春文庫なら黒色の背表紙を目当てに、すぐに清張の作品の前に行くことができる。

 一方、作者別の書棚は好きな作家のまだ読んでいない作品を求める場合は勿論だが、翻訳作品、特に複数の出版社から出ているような世界的な名作(例えば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』やオーウェルの『動物農場』など)を買い求める場合、出版社によって翻訳者が異なるので、その場で読み比べて、最も自分にしっくりするものを買うことができる。

 『動物農場』は岩波文庫、角川文庫、ハヤカワ文庫、ちくま文庫から出版されているが、筆者には 高畠文夫の翻訳が最も読みやすかったので、角川文庫でこの作品を読んだ。

2025.2.16 映画「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」

 公開中の「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」(2023年、ドイツ・オーストリア・スイス・イギリス合作映画)を観た。

 1940年8月のベルリン。金髪でアーリア人のような容姿をもつ18歳のステラ・ゴルトシュラークはアメリカに渡ってジャズシンガーになることを夢見ていた。しかし、彼女はユダヤ人だったため、それは叶わない夢だった。3年後、軍需工場で強制労働を強いられていたが、ユダヤ人向けの偽造身分証を販売するロルフと出会い、恋に落ちる。同胞や家族が隠れて生活する中、二人は、ユダヤ人の窮状を利用して、偽造した身分証を手配していた。しかし、そのことが発覚し、ゲシュタポに逮捕される。〝死の工場〟と噂されているアウシュヴィッツへ移送されるのを免れるため、ステラはゲシュタポに協力して、ベルリンに隠れているユダヤ人逮捕に協力した。終戦後、生き残るために同胞を裏切ったステラは、ナチスへの協力者として裁判にかけられる……。

 映画のラストで「彼女は加害者であるとともに、被害者でもある」というテロップが流れる。なるほど、同胞を裏切らなければ生き残れない状況は確かに悲劇である。もし、ナチスによるホロコーストがなければ、否、ステラがアメリカに移住できていたなら、同胞を裏切ることはなかったであろう。しかし、いくらそうした悲劇的な状況であっても、自分の親しい人や友人たちを裏切ることができるであろうか? 単に〝裏切った〟のではなく、積極的に同胞を〝売って〟いたのだ。(だから、彼女は同胞から〝Blonde Poison〔金髪の毒婦〕〟や〝Blonde Lorelei〔金髪の魔女〕〟と呼ばれていた)

 もし、筆者が彼女の立場だったら、同胞を売るくらいなら死を選ぶであろう。そんなことをして一日を永らえたとしても、自責の念で苦しまなければならない。それに、そこまでして、当時のユダヤ人が置かれた状況の下で生きたいとは思わない。しかし、そう思うのは、結婚して子ども独立し、孫もいる、もうすぐ65歳を迎える筆者にとって、人生にそんなに思い残すことはないからであろうか? もし、彼女と同じような人生がこれからという18歳だったら、果てして現在と同じ思いを抱くであろうか? ……いや、それでも、やはり筆者なら裏切らない。

2025.1.12 巳年に想う

 今年の干支は巳。蛇は脱皮して成長することから、巳年は〝変化の年〟と言われている。しかし、今年65歳になる身として、ことさら変えたいものはないし、また長年の習慣から、そう簡単に変われるものではない。身の周りのことについても、あまり変わってほしくないというのが正直な気持ちである。

 それでも、世の中は次々と変わっていく。買い物一つとっても、セルフレジやスマホ決裁。二十代の息子は当たり前のように行っているが、昭和生まれの筆者には戸惑うことばかり。家電製品の設定に関してサポートセンターへ問い合わせようとしても、チャットへ誘導され、すんなりとオペレーターと直接、電話で対話することができない。

 コスト削減のため、あらゆる場面で人が減らされていく。自分が若かった頃のような人との対面販売が当たり前だった時代が無性に懐かしい。筆者のように、世の中の変化についていけない人は、この先どうなるのだろうか。

 その点、蛇は環境に合わせて変化した究極の生き物であろう。草藪や地中を移動するのに脚は邪魔になることから退化して、あのような姿になった。なるほど、脚を残したトカゲに比べて草藪をスムーズに移動することができるだろう。その代わり失ったものもある。これは人間だけが思うことであるが、脚をなくした代償として、あのグロテスクで気味が悪い姿になってしまった。その結果、「蛇蝎」という言葉が象徴しているように、蛇は忌み嫌われる存在になってしまったのである。

 反対に、かつて地球上を支配していた恐竜は、環境の変化に対応できずに滅んでしまった。しかし、滅んでしまったがゆえに、後世の我々にロマンを掻き立ててくれる存在になっている。忌み嫌われるよりも、よっぽど良いではないか。

 変化することを全て拒絶しているのではない。しかし、「不易流行」という言葉があるように、いくら環境が変わっても、変えてはならないこともあるのである。