2023.11.12 ネコと作家

 神戸ファッション美術館で開催中の「超・色鉛筆アート展」を見に行った。

 色鉛筆は誰しも子どもの頃、お絵かきやぬりえで使っていた親しみのある画材だ。しかし、侮るなかれ。筆圧の調整や重ね塗りによって、多彩で奥の深い趣が出せることから、色鉛筆で描くプロの画家もいる。同展覧会では、現在、我が国で活躍する色鉛筆作家12人の超絶技巧=「神ワザ」を紹介していた。

 展覧会を見て筆者が驚いたのは、ネコを描いた作品の多さである。120点の展示作品の内、実に四分の一がネコの絵だった。そして、どれもが毛の一本一本まで精緻に描かれ、写真と見まがう出来栄えだった。それに対してイヌを描いたのは、わずか一点だけ。

 書店に並ぶ動物の写真集も、イヌよりもネコの方が多い。文学も同様。『フランダースの犬』(ウィーダ)や『荒野の呼び声』(ジャック・ロンドン)のようなイヌが主役の作品もあるが、ネコが登場する小説の方が圧倒的に多く、しかも、『黒猫』(ポー)、『牝猫』(コレット)、『吾輩は猫である』(漱石)、『猫と庄造と二人の女』(谷崎潤一郎)などのように文学性も高い。

 また、作品に取り上げるだけでなく、実際にネコを飼っている作家(小説家、漫画家、写真家を含む)も多い。作家の仕事机の上を悠然と歩くネコが映る場面をテレビでもよく見かける。

 なぜイヌよりネコを描いた作品の方が多いのだろうか? それはネコの持つミステリアスな雰囲気、こちらの心の内も見透かしているようなあのクールな目、人に媚びない孤高な態度が作家の創作欲を掻き立てるのだろう。愛すべきお馬鹿さんとも言うべきイヌの天真爛漫さは、どうやら芸術にはマッチしないようだ。

 筆者もネコを見ていると(と言っても、飼っているわけではないが)、小説になりそうなシチュエーションが脳裏に浮かぶ。ある独身の男が真っ白な美しい牝猫と暮らしている。その牝猫は夜になると妙齢の女性に姿を変えて・・・。しかし、こんなモチーフは、既に誰かが作品で書いているに違いない。では、こういうのはどうだろうか。この独身男性には恋人がいて、彼女がその牝猫に嫉妬して、牝猫を殺してしまう・・・これも、二番煎じだろう。それならば・・・

 なるほど、作家ならずとも、ネコは見ている人の創作欲を掻き立てる魅力的な生き物である。

2023.10.22 活かされなかった情報

 イスラム原理主義組織ハマスが、今月の7日、イスラエルへ奇襲攻撃を行った。奇襲を許してしまったことで、イスラエルの情報機関への批判が強まっている。イスラエルの情報機関と言えばモサドが有名だが、なぜ世界有数の情報機関と言われるモサドが、このような失態を演じてしまったのか? 新聞報道によれば、主な要因は次のようなことである。

①ハイテク頼みの情報収集の裏をかかれた

 イスラエルは無人機や通信傍受などハイテク技術を用いて、ハマス指導者たちの動静を監視していた。ハマスはこれを警戒して、ネットワークを使用せずに、地下で隠密に紙媒体の文書を用いて交信し、その場で破棄させるなど、アナログな隠密行動に徹し、モサドの諜報網を搔い潜ったと言われている。

②ハマスの能力を過小評価した。

 今回、ハマスはロケット弾だけでなく、戦闘員がパラグライダーやボートを用いてイスラエルへ侵入した。テロ組織が陸海空から同時攻撃を行う能力や手段を有することなど、これまでの経験からイスラエルにとって、到底、考えられないことだった。

③警戒情報を軽視した

 いやしくも、モサドともあろう情報組織が、ハマスのロケット弾製造などに全く気づかず見逃すことはあり得ない。また、奇襲攻撃の数日前、エジプトの情報機関がイスラエル政府に対してハマスによる攻撃の可能性を警告していたという。それにもかかわらず、それら情報を軽視したのは、②で述べてことに加え、近年の中東情勢の融和ムードから、警戒情報を本気にせず、過小評価したためだと言われている。

 いずれも要因として十分に考えられことであるが、筆者は特に三番目の要因が最も影響していると考えている。過去の歴史を振り返ると、情報機関が奇襲攻撃に全く気づかなかったとはあり得ない。

 1941年6月22日未明、ナチス・ドイツ軍は、突如、ソ連へ侵攻した。それより前からソ連のスパイ、ゾルゲは、独ソ戦開戦を警告する情報をスターリンへ送っていたが、スターリンはそれを信じなかった。と言うより、信じたくなかったのだ。

 せっかくの情報も為政者によって、全く活かされていないことがままある。為政者(あるいは、その機関のトップ)にとって、都合の悪い情報は軽視されるか無視され、都合の良い(心地の良い)情報だけが取り上げられる。情報を活かすも殺すも、とどのつまりは受け手しだいだ。そんなスパイがもたらす情報の危うさを、グレアム・グリーンは『ハバナの男』で、ジョン・ル・カレは『パナマの仕立屋』でアイロニカルに描いている。

2023.10.8 長編小説と短編小説

 長編小説と短編小説――どちらもそれぞれ魅力があり、どちらを好むかは人それぞれ。筆者の場合、状況によって異なる。

 筆者が長編小説を読むのは、通勤電車の中、会社のお昼休み、週末のスターバックスなど、もっぱら日中である。夜は頭が疲れているせいか、本を読んでいてもすぐに眠くなるし、複雑な人物関係や物語の伏線も頭に入りにくい。

 長編小説の魅力は、何と言っても様々な人物が登場し、大河の流れのように物語が滔々とクライマックスに向かって展開していくことだろう。長い作品の場合、読み終えるのに1か月、場合によっては2~3か月を要する場合もある。それだけ、長い間、登場人物たちと一緒に物語の世界を過ごしていると、主人公をはじめ、登場人物たちに対する思い入れも増し、読み終えたとき、充実感よりも、筆者の場合、「もう、この人たちと一緒にいることもないのか」という一抹の淋しさ、陳腐な表現だが、まさに「心にぽっかりと穴が開く」という感覚に陥る。

 最近であれば――再読になるのだが――手塚正己の『軍艦武蔵』(正確にいえば、小説ではなく、ドキュメンタリーだが)がこれに当て嵌まる。

 一方、短編小説は長編小説のように主人公と共に人生を歩むという感覚はないが、物事のある一面を切り取り、読み手の心をざわつかせたり、ヒヤリとさせたり、クスリとさせたりするのが醍醐味だ。殊にアンソロジーの場合は、一冊で色んな味の作品が堪能できるので、幕の内弁当のような魅力がある。

 筆者の場合、寝る前のひと時に短編小説をよく読む。寝る前に長編小説はヘビーだ。その点、短編小説は、短いものであれば30分もあれば読み終えるので、ちょうどキリよく、眠りにつくことができる。

 短編小説を読む時間帯は、寝しな、即ち夜であるので、作品はミステリアスなものや、怖いものがよい。昼間の明るくて人が多い場所で怪談を読んでも、ちっとも怖くない。読むなら、断然、夜だ。何気ない日常風景を読みやすい文章で綴り、最後に思わず背筋を凍らせるようなオチがある阿刀田高の作品などは、筆者にとって、最良の寝物語である。

 さて、あなたは長編小説派? それとも短編小説派、どちらであろうか?

2023.9.10 小説の二つの面白さ

 小説の面白さは二つに大別される。一つは「我を忘れる面白さ」であり、いま一つは「我が事のような面白さ」である。

 前者は退屈な日常生活を忘れさせてくれるような大冒険、スリル、恐怖、ロマンスなどを描いた小説だ。スパイ小説は勿論のこと、ミステリもこの範疇に入る。新聞やテレビで殺人事件のニュースを見ない日はないが、それでも多くの人にとって、人を殺めることや殺されることは、人生において無縁なことである。殺人は、あくまでも、他所で起こった怖い事件。だから、読者は安全な場に身を置いて、作品の中で描かれている事件の謎解きや犯人捜しを愉しむことができるのだ。殺人が身の回りに溢れている世界(例えば、戦時下の国)では、人はミステリを愉しむような余裕などない。

 一方、後者は〝我が事のような〟、即ち〝身につまされる〟小説である。読者はそこに描かれている主人公の一喜一憂を自分自身に準え、自分のことのよう小説を読む。この範疇の作品は、読者と同じような等身大の人物を主人公に据え、読者と同じような生活環境で暮らし、そこで起こった心をざわつかせること(と言っても、ミステリのような犯罪事件ではない)を描いたものが殆どである。私小説はその典型だし、村上春樹、宮本輝、重松清、林真理子、西加奈子といった、国内人気作家の作品の多くもこの範疇に入る。等身大の主人公が経験する哀しみに読者は涙し、主人公が味わう理不尽に対して同じように憤り、主人公が再生する姿から読者は元気を貰う。それがこの種の小説の魅力であり、多くの読者から支持されている理由であろう。

 しかし、筆者はこの〝等身大の主人公〟というものを素直に受け入れることができない。どうしても自分と比較してしまうのだ。特に主人公がやり手のビジネスマンだったり、女性にモテるといった〝自分にないもの〟を持っている場合は、全く寄り添うことができない。その点、歴史小説や海外ミステリの登場人物は、ハナから時代も舞台も異なるので、いちいち自分と比較することはない。素直に作品の中に没入することができる。

 だから筆者の部屋の本棚には、スパイ小説、海外ミステリ、歴史小説、戦記物などの、〝我を忘れる〟作品ばかりが並んでいる。

2023.8.20 人生をもう一度やり直せたら

 誰しも人生をもう一度やり直せたらと思ったことがあるに違いない。

 白石一文の『道』は、そんな思いに訴えかけてくる小説である。主人公の功一郎は大手食品会社に勤めるサラリーマン。3年前に大学生の娘を交通事故で亡くし、それがきっかけで妻は心を病み自殺未遂を起こしている。会社の仕事を背負いながら、義妹の助けを借りて妻を看護する毎日。そんな矢先、妻が再び自殺未遂を起こした。限界を感じた功一郎は中学生のときに体験した、あることに望みをかける。それは高校受験に失敗した彼が、「道」と題された絵の前に立った途端、タイムスリップして受験会場に舞い戻った奇妙な体験だった。人生の行き詰まっていた功一郎は、同じ「絵」の在処を探し出し、娘が事故に遭う直前の世界に戻る。彼は娘の生きている世界で、果たして望んだ人生を取り戻すことができるのだろうか。

 この作品には「悲劇の総量はどの道を選んでも変わらないの」という文が、しばしば出てくる。「絵」によって功一郎は、娘が生きている世界で暮らすことになるのだが、別の不幸が彼を待ち受けていた。自分の人生をやり直せたとしても、別のところで何かが起こり、結局のところ人生はそんなに変わらない。……筆者はこの作品から、そんな思いを強くした。さらに言えば、人生を左右するのは、結局、その人の性格ではないだろうか。

 筆者は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊した。しかし、すぐに陸上自衛隊に入るべきだったと後悔した。もし、陸上自衛隊に入っていたら、自衛隊を辞めず、今頃は輸送隊で活躍し、幹部になっていたかも……海上自衛隊を辞めた後、長らくそんなことを夢想していた。しかし、不器用で何をやらしても要領の悪い筆者のこと、もし陸上自衛隊に入っていたとしても、結局、自衛隊を辞めていただろう。

 大学を卒業して、今の勤め先である団体の事務局職員になったが、本当は新聞記者になりたかった。しかし、社交性に欠ける筆者の性格では、サツ回りで苦労しているだろうし、夜討ち朝駆けの記者生活で体を潰している可能性さえある。そして、「ああ、もう少し楽な公務員か団体職員にでもなっておけばよかった…」と嘆息していることだろう。

 妻のことも同じである。筆者の妻は自分とは正反対で明るく社交的だが、気が強くて口喧しい。このため、もっと大人しい静かな女性と結婚したらよかったと思うことが、しばしばある。しかし、大人しい女性と二人きりでいると会話も途切れ、気詰まりな思いをする。今の妻と結婚していなくても、筆者は、やはり明るくてよく喋る女性(その代わり口喧しい)と結婚していただろう。

 どんな人生を選択しても、性格が同じなら、ある事象に対して同じように感じ、同じように対応するものだ。人生は、その時々の自分が執った対応の結果である。ゆえに、人生をもう一度やり直せたとしても、(確かに置かれている環境や相手は異なるかもしれないが)、今の人生とそんなに変わらないのではないか。

2023.8.6 コロナに感染して想う

 先週、コロナに感染し臥せっていた。7月27日の午後から急に寒気がしてきたので、その日の晩は、市販の風邪薬を飲んで早めに床に就いた。翌朝は気分も良く、会社でも普通に仕事をしていた。しかし、夕方から再び悪寒。帰宅したころには熱も上がって、体温計で測ると39°。晩から喉も激しく痛みだす。翌朝、妻の運転する車で近くの病院まで行って検査を受けると、コロナに感染していることが判明した。

 コロナが猛威を振るっていた1~2年前のときも、幸いコロナに感染しなかったし、街の飲み屋などでも、客たちが今までの憂さを晴らすかのように、マスクもせず密集状態で、コップ片手に大声で談笑している様を見ると、コロナは終焉したように思えていた。そうしたやさき、このタイミングで自分がコロナに感染するなど、夢にも思わなかった。

 病院で処方された薬を飲んで臥せっていたが、コロナは、これまでのインフルエンザなどとは違う辛さがある。特に症状のピークであった先週の今頃は、咳と痰で一睡もできなかった。仰向けになった途端に咳と痰が出るのだ。呼吸器系が苦しいという思いは、生まれて始めて経験した。

 あれから、ちょうど一週間経った8月5日現在、症状も回復し、今、スターバックスでこのブログを書いている。先週の今頃は咳と痰で苦しんでいたことを想うと、あらためて、健康のありがたさを実感する。我々は何気なく日常生活を送っているが、それが損なわれて初めて、そのありがたさに気づかされるのだ。

 ニュースによれば、新型コロナの全国の直近1週間の患者数が前の週と比べて1.14倍となり、「5類」に移行してから11週連続で緩やかに増加し続けているらしい。そうした事実を知っているのか知らないのか定かでないが、昨日も会社帰り、道路に面している酒場から、コロナなど、どこ吹く風とばかり、酔客の談笑が聞こえていた。そうした様子を見ると、筆者はコロナに感染したがゆえに、心配せずにはおられない。

 「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったのは寺田寅彦だが、彼は次のようなことも言っている。「モノを怖がらなさ過ぎたり、怖がり過ぎたりするのは優しいが、正当に怖がることはなかなか難しい。」

2023.7.9 薩摩藩へ潜入した熊本藩士

 今年の3月12日付のブログで薩摩飛脚について述べたが、7月3日付の朝日新聞に面白い記事が載っていた。

 熊本藩史の研究を行っている熊本大学・永青文庫研究センターが、1651年に薩摩藩へ派遣された村田門左衛門という密偵の書き記した報告書18カ条を見つけたという記事である。

 同センターによると、税制や財政状況から金山開発の凍結や異国船警備、琉球・八重山の支配、城の石垣の状況、宗教政策まで17世紀の薩摩内の情勢が事細かく記され、熊本藩の情報収集能力の高さを伺わせるものだと言う。

 閉鎖的で秘密主義の薩摩藩の動向に神経を尖らせていた幕府は、隣国の熊本藩に監視と抑え込みを期待した。また、熊本藩もいちはやく薩摩藩の情報を集め、幕府と共有することで、自らのアイデンティティにしたという。

 しかし、それにしても薩摩藩へどうやって潜入したのだろうか? 薩摩飛脚で述べたように、薩摩藩へ潜入するのは容易なことではない。これだけ正確な情報の入手には相当に長く潜入し、薩摩弁も不自由なく使えたに違いない。ただし、薩摩は馬の産地だったので、馬喰なら、その買い付けのため比較的入国しやすかったという。

 ところが、村田門左衛門なる人物の報告書の書きぶりを見ると、密偵に抜擢されるだけの力量と素養を身に着けた人物であることが分かる。馬喰あがりなんかで務まるものではない。密偵ゆえ、家臣団の名簿にも載っていない村田門左衛門とは、果たして、どんな人物だったのだろうか。

 薩摩人以外の人間がいくら流暢に薩摩弁を喋っても、薩摩人から見ると、どこかで違和感を覚えるはず。だとすれば、元薩摩藩士だった人物が熊本藩へ仕えたのか? あるいは、薩摩藩の中に熊本藩へ寝返る人物がいたのだろうか。色々と想像したくなる。

2023.6.25 各社の文庫本比較

 前回に引き続いて文庫本について述べる。今回は出版社毎にみた文庫本の特徴、印象(あくまでの筆者の私見)である。

①新潮文庫

 今では珍しくなったスピン(しおり紐)が唯一、残されている文庫本である。収められている作品点数が多く、作品のレベルも一定以上。国産車のメーカーに譬えるならば、さしずめ、王道のトヨタといったところであろうか。

②角川文庫

 角川源義氏が社長だった頃の角川文庫は、揃えているコンテンツも新潮文庫と双璧をなしていた。しかし、二代目春樹社長が推し進めたメディアミックス戦略によって大衆路線へと変わり、その後、KADOKAWAという映像ソフトやゲームも手掛ける会社になってしまった現在、角川文庫は存続しているものの、かつての勢いは感じられない。あたかも今日の日産自動車の凋落を見ているかのようだ。

③講談社文庫

 これまで一般的だった活版印刷に対して、オフセット印刷を初めて採用したことで知られる。白い上質紙にくっきりとした印刷文字。講談社文庫は、筆者にとってコンテンツよりも、物体としての本のつくりの良さに目がいく文庫である。なお、同文庫は2021年4月15日分から、税込み価格を表示したフィルム包装入りで店頭に置かれるようになった。本は立ち読みして、内容を少し確認してから買うもの。買手の行動特性を慮らないフィルム包装は、まったく頂けない。

④文春文庫

 毎月の刊行点数が新潮文庫と同様に多く、作品も充実している。筆者は黄色い背表紙の司馬遼太郎の作品群(『竜馬が行く』や『坂の上の雲』など)を、この文庫本で読んだものだ。なお、かつての文春文庫は紙質が悪く、新品でもすぐに変色していた。現在は紙質も改善されたが、昭和生まれの筆者には、かつての、ややざらついた紙質の同文庫も懐かしい。

⑤中公文庫

 地味だが硬派の作品を品揃えしている文庫である。

⑥岩波文庫

 言わずと知れた、古今東西の不朽の名作のみを発刊する、いわばクラシック音楽のレコードレーベルのような文庫である。時代が変わっても、大衆に媚びずに、良書を発刊する姿勢を評価したい。岩波文庫は、長い間、パラフィン紙と帯紙を巻いただけの昔ながらの装幀を頑なに堅持していたが、時代の波に抗いきれず、1983年からカバーが付けられるようになった。しかし、他社のような則物的なカバーデザインではなく、表紙は白色を基調とした抽象的なデザイン、背表紙は薄茶色地に下半分は帯を模した色(海外文学は桃色、国内文学は緑色)であり、かつての岩波文庫の名残を留めている。

⑦ちくま文庫

 講談社文庫と同様、紙質が良く、また、岩波文庫と同様、本の内容と関係なく、薄茶色のカバーで統一されているのが好ましい。(しかし、最近の表紙は則物的デザインになっているが、背表紙は辛うじて、これまで同様、薄茶色で統一されている) ちくま文庫は、古典落語、エッセイ、大人向きの漫画(エロ黒とは違う)など、他社の文庫レーベルでは出してないコンテンツが充実している。筆者も、桂志ん生、桂文楽、柳家小さんなどの古典落語集を同文庫で持っている。

⑧創元推理文庫/ハヤカワ文庫

 ともにミステリー、冒険スパイ小説、SF小説などに特化したマニア向けの文庫である。国産車メーカーに譬えるならば、この二つはスバルといったところであろう。難点は、他社文庫に比べて値段がやや高いこと。少し厚みがある作品は千円を超える。

 この他の出版社からも文庫本は色々と出ているが、上に述べた8社の文庫本が、筆者が主に読んでいる文庫レーベルである。

2023.6.11 文庫本の魅力

 単行本より文庫本の方が好きである。同じ作品で単行本と文庫本がある場合、後者を選ぶ。また新刊の単行本が発売された場合で、いずれ文庫化されるであろうと思われる作品の場合、文庫本になってから買い求める。なぜ文庫本の方を選ぶのか。今回は文庫本の魅力について述べたい。

①携帯に便利

 筆者は朝夕の通勤電車内で本を読むのが習慣になっている。カバンから取り出すとき、あるいはツリ革を握りながら空いている方の手で本を読む場合、単行本より文庫本の方が、楽である。

②本棚のスペースを取らない

 ①と同様、小さいことのメリットとして、文庫本は場所を取らない。同じ書棚のスペースであれば、単行本より多くの本を並べることができる。

③単行本より安価

 昨今は文庫本であっても、千円を超えるものも珍しくないが、それでも単行本に比べて安価である。この差額でコーヒー一杯が飲める。

④「解説」があること

 文庫本の巻末には「解説」があり、作品を読んだ後に解説を読むという、プラスαの愉しみがある。

 文庫本に解説が付いている理由は、文庫本のそもそもの目的が「万人の必読すべき真に古典的価値ある書を(後略)」、「古今東西の不朽の典籍を(中略)、多くのひとびとに提供」という岩波茂雄や角川源義の言葉にあるように、それまで一部の教養人の読み物であった文学作品を、一般大衆にも読んで貰うために発刊されたものである。解説は、そうした読者が作品を理解するための手助けとして設けられたという。かつて旺文社文庫というレーベルがあったが、同文庫の解説などは、まるで教科書のように充実していた。

 以上が文庫本の魅力であるが、筆者にとっては四番目に述べたことが最大の魅力である。

2023.5.27 『一兵卒の銃殺』と父の想い出

 『蒲団』や『田舎教師』で知られる田山花袋。それらに比べて、あまり知られていないが、彼の作品に『一兵卒の銃殺』という中編小説がある。(よく似たタイトルで『一兵卒』という作品もあるが、これは別物である。)

 『一兵卒の銃殺』は、門限時間までに兵営に帰り損ねた、ある兵士の脱営、放浪,放火,銃殺へと、ずるずる破滅に向かっていく様を描いた作品である。

 実家の父の本棚にあった剥き出しの表紙のあちこちに焦げたようなシミがある、黄ばんで古い文庫本(奥付の発行年月日は、昭和36年12月20日)の同作品を手に留るたびに、今は亡き父のことを想い出す。

 それは今から半世紀以上も前、筆者が小学校四年生か五年生の頃のことだった。学校から帰って、近くの公園で友達と遊んでいたのだが、遊ぶのに夢中になり、すっかり門限の時間が過ぎてしまった。友達は皆、急いで帰ってしまったが、筆者だけ家に帰ることができなかった。父に叱られるのが怖かったからだ。

(どうしよう……)

 悩んでいるくらいなら、すぐに帰って父に謝ればよいのだが、目の前の怖さが先立って、玄関の敷居を跨ぐことができない。その後、とのようにして家に入ったのか記憶が定かでない。覚えているのは「帰るのが遅くなって……お父さんが怒るから……」と母親の横で鼻をすすりながら言い訳をする筆者に、父が気難しい顔をしてタバコをふかしている場面だ。筆者の話しが終わると、やおら父は口を開いた。

 「イチロウみたいにな、帰るのが遅くなって怒られるのが怖いから、そのまま脱走して、最後に銃殺される兵隊の小説があったけど、それと同じやないか。怒られるのが怖いからといって、逃げとったらダメだ」

 あのとき、父が引き合いに出したのが『一兵卒の銃殺』だったのだ。

 人生には嫌なことや逃げ出したいことが、いくらでもある。これまでの筆者の人生においても、そうしたことが度々あった。しかし、不思議とそんなときいつも想い出されたのが、父が気難しい顔をして語ったあの場面である。「怖いからといって、逃げとったらダメだ」は、長じるにつれて、「嫌だからといって、逃げていてはダメだ」と解釈するようなっていた。

 まがりなりにも、筆者が職を転々とすることもなく、家族を持って今日までやってこられたのは、家族を養わなければならないという責任感もさることながら、父が言っていた、この言葉も少なからず影響していると思う。

 父の本棚にあった『一兵卒の銃殺』は、心の杖として、今は筆者の本棚に置かれている。