2022.11.13 栞について

 栞……字面といい、〝しおり〟という音の響きといい、どこか清楚な女性を想起させる名が付された、本を読むときに挟む短冊形の硬い紙片。普段、あまり意識することはないが、栞も千差万別、様々なものがある。

 新刊の文庫本を買ったときに挟んである出版社の広告が印刷された栞。ペラペラの紙質は栞として使うには、あまり機能しない。印刷されているのは出版社がタイアップした映画の宣伝広告が多いが、主役を演じるアイドルの派手な広告写真は、読んでいる本の内容と乖離(あくまでも筆者の場合だが)しているうえ、本を読むのに目障りだ。直ぐにゴミ箱へ行くことになる。

 書店などが独自に作っている栞もある。こちらは本にまつわる詩や格言、あるいはメルヘンチックなイラストなどが印刷されたものが多い。しかし、凝り過ぎたものは、本と栞が主客転倒していて使いにくい。

 押し花をラミネート加工したものや革製の、お土産用として販売されている栞もある。筆者は通勤電車内でよく本を読む。座れない場合は立って読んでいる。栞は開いているページから巻末ページまでの間(即ち、まだ読んでいない部分)に挟んでいるのだが、挟み方が浅かったりすると、何かの拍子に栞が落ちてしまう。紙なので、ひらひらと落下して、自分の足元に落ちるとは限らない。見失うこともあるし、他の乗客の足元に落ちると、車内が混んでいる場合、拾うことができない。このように筆者は電車内で、しはしば栞を失っているので、栞を有料で買うことは考えられない。

 筆者がよく使う栞は、書店などがオリジナルで制作しているものだが、白を基調とした抽象的なデザインのもの、要は栞自身へ関心がいかないものだ。筆者にとって、栞は読みかけの本のページを開く目印にすぎないので、目立つものは煩わしい。そういう地味な栞を使いまわして三冊くらい読むと、紙が自然に劣化するので、次の栞と取り換えている。

 こう書くと、栞に何の思い入れもないように思われるかもしれないが、そんなことはない。栞を挟んでいる位置は、読んだページに従って後ろへ移動していく。読み応えのある長編文学などの場合、最初の内は、栞は遅々として移動しない。しかし、いつしか、それが本の半分まで来て、さらに数日すると、残り部分が少なくなってくる。皮肉なもので、初めの頃は、栞の緩慢な動きがもどかしかったのに、この時期になると、残りが減るのが惜しくなってくる。面白い小説ほど、それを感じさせる。

 筆者にとって、栞は目印にすぎないが、それは物語の進行状況と面白さの度合い示すバロメーターにもなっている。

2022.10.30 マリリン・モンローとアインシュタイン

 先日、職場で保健師による健康講座を聴く機会があった。テーマはVDT症候群(パソコンなどのディスプレイを長時間使用し続けることにより生じる目や身体などの不調)。話しの中で、筆者が特に興味を惹いたのは、保健師が近視のメカニズムに関連して示した、ある写真である。

 それはマサチューセッツ工科大学のオード・オリーヴァ博士らを中心とした研究グループが作成した、ぼやけたモンローの写真と、くっきりしたアインシュタインの写真を合成した「ハイブリッド・イメージ」と呼ばれる画像だ。

 視力のよい人は、写真の細かな情報を脳が読み取ることができるため、シワやヒゲなどを認識し、アインシュタインに見える。一方、視力の悪い人は、細かな情報を読み取ることができず、目、口、鼻などの全体の大まかなイメージで認識してしまうため、モンローに見えるというのだ。また、視力のよい人でも、離れてこの写真を見ると、細かな情報を脳が読み取ることができなくなるため、モンローに見えてしまう。ちなみに筆者は老眼なので、普通に見る距離ではアインシュタインだが、近づくと画像がぼやけモンローに見えた。

 ところで、マリリン・モンローとアインシュタインには、真偽は定かでないが、こんな逸話がある。

 モンローがあるパーティーの席で、アインシュタインの隣に座り、彼の耳元でささやいた。

「私の外見(美貌)とあなたの頭脳なら、生まれた子は完璧な子になるわ!」

すると、アインシュタインは笑顔で返事した。

「しかし、その子が私の外見であなたの頭脳を持っていたら、どうする?」

 モンローとアインシュタインとでは、〝見えるもの〟が違っていたのだろうか。

2022.10.9 アントニオ猪木とスパイ小説

 10月1日、アントニオ猪木が亡くなった。享年79歳。昭和に子供時代を過ごした筆者ら世代の男性にとって、アントニオ猪木はヒーローだった。当時、プロレスはテレビのゴールデンタイムで放送されており、ジャイアント馬場とタッグを組んで外国人レスラーを倒すアントニオ猪木は輝いていた。どこか動きが緩慢なジャイアント馬場と比べて、アントニオ猪木は、リングアナに紹介されときのガウンを脱ぐ颯爽とした動き、ゴングが鳴り、相手との間合いをはかりながら、瞬時に相手の懐に飛び込む切れ味鋭い動きなど、カッコよさでは、断然、アントニオ猪木が勝っていた。彼のキメ技であるコブラ・ツイストや卍固めなど、小学校の休み時間、クラスメートと技を掛け合って遊んでいたものだ。

 その後、アントニオ猪木は、ジャイアント馬場と袂を分かって新日本プロレスを立ち上げる。そこでも彼はファンを楽しませてくれた。

 サーベルを振り回すタイガー・ジェット・シン、強烈なウエスタン・ラリアットの使い手スタン・ハンセン、〝人間山脈〟と呼ばれたアンドレ・ザ・ジャイアント…等々、個性的な外国人レスラーと対戦し、最初は苦戦しながらも最後にはキメ技で劇的に勝利を収めるアントニオ猪木の戦う姿に、当時の我々は、それがつくりものであると分かりながらも、熱烈に支持し喜んだものだ。

 それは、たとえて言うなら、ウルトラマンの世界だ。ウルトラマンは、毎回(毎週日曜?)、違う怪獣と戦い、最初は苦戦しながらも、最後はスペシューム光線で相手をやっつけていた。アントニオ猪木の試合でいえば、ウルトラマンは当然、彼だし、次から次へと現れる怪獣はタイガー・ジェット・シンやアンドレ・ザ・ジャイアントなどであり、スペシューム光線はコブラ・ツイストや卍固めだろう。

 今日、そんなショー的なプロレスへのアンチテーゼである真剣勝負の格闘技イベント、RIZNやK-1などが大晦日の定番であるが、かつてのような圧倒的な人気はない。真剣勝負ならではの迫力は感じるが、カリスマ的なヒーロー、個性的なヒール・レスラー、お約束事のキメ技などがないので、観客と一体になった華やかさに欠ける。

  この構造はどこかスパイ小説にも似ていないか。アントニオ猪木の試合は、つくりものだと分かっていても、ハラハラ・ドキドキさせられ、最後にカタルシスが味わえる007シリーズやミッション・インポッシブル・シリーズだろう。一方、真剣勝負のRIZINやK-1は、一部のマニアだけから支持されるジョン・ル・カレなどのシリアス型のスパイ小説というところであろうか。……往時のアントニオ猪木の思い出して、そんなことを思った。

2022.9.25 書評を読む愉しみ

 スパイ小説の書評を書いていることもあって、書評をよく読む。また、書評を読むことそのこと自体が好きである。ミステリ評論家の各務三郎は『ミステリ散歩』(中公文庫 1985年)の中で、書評を読む愉しさを「まだ読んでいない本の中身を知るほかに、自分の読んだ本をどう評価しているかとのぞきこむのは、隣の座席の人の試験答案を盗み見るようなスリルさえ感じられます」と譬えている。

 そのようなスリルが味わえるかはともかくとして、今回はこれまであまり取り上げられることのなかった<書評を読む愉しみ>について述べたい。

 一つ目の愉しみは、各務三郎が前半で述べている「まだ読んでいない本の中身を知る」というブックガイド、即ちカタログとしての愉しみである。書評には、その作品の梗概や訴求ポイントなどが解説してあるので、わざわざ書店で立ち読みしなくても、本を探すのに便利だ。また、ボリュームも1,000~2,000字と手ごろなので、寝る前に読むのにちょうどよい。枕元のあかりをつけて、ミステリの書評集に目を通し、次に読みたい作品を探すのは筆者にとって至福のひとときである。

 二つ目の愉しみは、各務三郎が後半で述べている「自分の読んだ本をどう評価しているかとのぞきこむ」ことである。自分が読んだ作品について、他の人がどう評価しているのかを知るのは、自分の感性を再確認することになる。自分と同じような評価がされていれば、仲間意識みたいなものを感じるし、違う評価ならば、それはそれで、自分とは異なる視点を知ることできて興味深い。

 これの発展形が三つ目の「書評を読み比べる」愉しさである。クラシック音楽の演奏が、同じ曲目であっても、指揮者によって印象が異なるように、あるいは同じ演目の落語であっても、噺家によって演じ方が異なるように、書評も同じ作品を取り上げていても、評論家によって焦点の当て方が異なる。

 例えば、ケン・フォレットの『針の目』について、作家の丸谷才一は「新しいジョン・カバン」(『快楽としてのミステリー』ちくま文庫 2012年)と評し、文芸評論家の北上次郎は「女性の眼から語らせる<新しい冒険物語>」(『冒険小説ベスト100』本の雑誌社 1994年)と評している。マニアにとっては、そうした違いを読み比べることも、愉しい作業である。

 本ホームページに載せている筆者のスパイ小説書評を読まれた方も、上に述べたような<愉しみ>を感じてくれているだろうか。

2022.9.13 電子書籍について

 通勤電車の中で本を読んでいる人をあまり見かけなくなった。寝ている人を除いて、ほとんどの人がスマホを見ている。スマホを見ているからと言って、必ずしも電子書籍を読んでいるとは限らないが、少なくとも電子書籍の受け入れ環境については、完全に整っていると言っても過言ではないだろう。

 出版科学研究所の『出版月報』(2022年1月発表)によれば、出版市場全体における電子書籍の割合は27.8%。その中でも、コミックの進展が著しく、電子書籍におけるコミックの割合は実に88.2%と、約9 割に迫る勢いだ。

 年代別でみると、20代~30代では半数以上の人が電子書籍と紙の本の両方を読んでいるのに対して、60代以上では70%の人が紙の本しか読んでいない。(2021年9月、「楽天ブックス」ユーザー調査)

 かく言う昭和生まれの60代の筆者も、紙の本しか読まない。理由はスマホでは読みにくいことや、電子書籍のコンテンツに読みたい小説がないことなどだ。

 筆者は本だけでなく、会社の書類もパソコン上で読むのが苦手である。込み入ったことが書いてある書類は、わざわざプリントアウトして、重要な箇所にマーカーを引かないと、なかなか頭に入らない。DX化、ペーパーレス化を推進する我が職場において、時代についていけていない筆者の肩身は狭い。そんなとき、ネットに掲載されていた、ある記事を読んで、そうしたことに科学的根拠があることが分かり、気持ちが楽になった。

 リコー経済研究所が掲載している記事(2020年9月14日付)によれば、紙に印刷されたものを読むときは“反射光”で文字を読むので、人間の脳は「分析モード」になり、目に入る情報を一つひとつ集中してチェックするらしい。これに対して、パソコンやスマホから発せられる“透過光”で画面を見るときは、脳は「パターン認識モード」になるので、細かい部分を多少無視しながら、全体を把握するという。

 道理で、パソコンでは何回も確認したのに、紙に印刷すると原稿のミスを発見するのは、脳のこうした機能によるものだったわけだ。また、コミックと電子書籍の相性がよいことも納得である。逆に文字を一字一字追っていく小説は、パターン認識には適さないようだ。ゆえに、紙の本がなくなることは、絶対にあり得ないだろう。

 電子書籍と紙の本……それぞれに一長一短がある。ライバル関係として捉えるのではなく、用途に応じて、より適した方、使いやすい方を選択していくのが賢明だ。筆者が指摘するまでもなく、電子書籍は既にそうした形(例えば、コミックなど)で広がりつつある。

2022.8.28 スパイ小説がメジャーにならない理由

 友人からNHKのETV特集「久米島の戦争~なぜ住民は殺されたのか~」が放映されることを知らされ、先日、再放送された同番組を見た。

 1945年6月、米軍は久米島を攻略するため、住民男性二人を拉致して情報収集を行った。その後二人は解放されたが、日本軍の守備隊は彼らがアメリカに寝返ったのではないかと疑い、二人だけでなく、二人が戻ったことを軍に知らせなかったとして、彼らの家族、さらには村の区長や警防団長ら計9人を処刑にし、その遺体を家屋ごと焼いた。その後も守備隊は、少しでも米軍と接触があった住民を、有無を言わさず次々と殺害、最終的には20人の住民が処刑された。

 番組は米軍資料、新たに見つかった日本兵の日誌、関係者のインタビューなどを元にして、なぜこのような悲劇が起こったのか、事件の深層に迫ろうとしていた。 

 戦後、守備隊長だった元兵曹長は、インタビューの中で次のように語っている。「当時スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、米軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろ、ワシの部下は30人、島民は1万人もおりましたからね」……戦争は恐怖心を呼び起こし、時にはそれが狂気に変じて人を悪魔的行為に走らせる。

 友人は「スパイ小説でこのようなむごいことが題材として取り上げられることはあるのか?」と私へ質問した。この質問へ回答するには、〝スパイ〟という言葉に対する二つの捉え方について述べる必要がある。

 一つは密かに敵側陣営に潜入し、相手側の情報を盗み出す行為(諜報)、又は自陣の中に潜む敵側スパイをみつける行為(防諜)にイメージされるスパイという言葉だ。そこには隠されているものを探りだす、どこか知的ゲームのような面白さがある。いわゆるスパイ小説が扱うのは、この知的ゲームとして捉えたスパイである。

 もう一方は、「密告」「チクる」「裏切り」「仲間を売る」などの行為にイメージされるネガティブな忌み嫌われるスパイという言葉。労働組合における「会社側のスパイ」や学生運動における「官憲のスパイ」、そして久米島事件におけるスパイなどがこれに当て嵌まる。こうしたスパイに対する感情は恐怖心から湧き起こるので、先に述べたように、スパイとみなされた人物に対して凄惨な仕打ちが科せられる。

 後者のスパイを扱った作品として、ソンミ事件(ベトナム戦争最中の1968年3月、南ベトナムのソンミ村の住民がベトコンに通じているのではと疑ったアメリカ陸軍は、無抵抗の村民数百人を殺害、集落を壊滅状態にした虐殺事件)を下敷きに、民間人大量虐殺の首謀者として裁かれた元軍人が国家を相手に闘うさまを描いたネルソン・デミルの『誓約』(1985年)が挙げられよう。しかし、これがスパイ小説かと問われれば、答えは否である。

 このようにスパイという用語には二つの捉え方があるが、我々が通常、イメージするのは後者の方である。スパイ小説がミステリー小説のようにメジャーにならないのは、そうしたことも理由の一つになっているのかもしれない。

2022.8.7 私が実際に遭遇したロシアのスパイ

 ロシア通商代表部の職員がスパイ活動を目的に日本のハイテク企業の社員へ接触を謀っていることを警視庁公安部が企業側へ通報し、情報漏えいを未然に防いだという新聞記事が載っていた。(2022年7月28日付、産経新聞)

 記事によれば、スパイ活動が疑われる案件を摘発前に企業へ伝えるのはきわめて異例とのこと。背景にあるのは、近年、急増している中国やロシアによる我が国企業へのスパイ活動だ。このため、警視庁は捜査・摘発だけでなく、企業へも積極的に情報提供(相手の手口など)を行って、注意喚起を図るようになったという。

 相手、特にロシア・スパイの接触の手口は〝訓練されたプロによる非常に洗練されたもの〟(同記事)で、例えば、会社の通用門付近で偶然を装って、日本語で道案内を頼み、社員が善意で目的地まで連れて行く間に、社員から連絡先を聞き出して、「今度どこかに飲みに行きませんか」なとど誘い、関係を築こうするのだそうだ。

 そこで思い出されるのが、筆者(私)が四半世紀前に経験したある出来事。筆者は科学技術を振興する団体に勤務しているが、当時、バイオテクノロジーに取り組む関西圏の企業で構成する研究会の事務局を担当していた。仕事の性質上、いろいろな企業や機関の訪問を受けることが多い。その中には各国領事館の商務官という人もいたので、在大阪ロシア領事館の職員が訪ねて来たときも特段、不思議に思わなかった。

 名前はもう忘れてしまったが、同領事館で科学技術の調査を担当しているという、小柄で温厚そうなその人は流暢な日本語で、関西のバイオテクノロジーに取り組む企業や特色などについて質問してきた。上司と一緒に応対し、研究会のパンフレット等に基づいて説明すると、相手も満足したと見え、「今度、是非、食事でもしましょう」と言って帰って行った。

 それから一月ほどして、そのロシア領事館の人から食事の誘いの電話があった。相手が指定した店は、筆者の上司の自宅がある町にあったので、仕事帰りのある日、一緒に食事することにした。

 今回はバイオテクノロジーに関することだけでなく、日本の印象や休日に訪れた観光名所、彼の奥さんが料理をつくるのが好きなことなど、いろいろと話しは及んだ。そして、お開きのとき「今度、我が家で行うパーティーに招待するので、是非、妻の料理を食べてください」と彼は言っていた。店を出た後、お酒でいくぶん顔が赤くなっている上司は「なかなか、いいオッちゃんやないか」と上機嫌だったが、私の中では警戒信号が点滅していた。

 一再ならず会う機会を設け、しかも、まだ二回しか会っていない友人でもない我々をホームパーティーへ招待するなど、どこか普通ではない。他の国の領事館の人たちは、ここまでして、ことさら我々と関係を築こうとはしないのに…。ひょっとしてロシアのスパイでは? 上司にその旨を告げると、「それは、君、スパイ小説の読みすぎやで」と一笑に付された。しかし、今回の新聞記事を見て、やはり、あれは間違いなくロシアのスパイだったと確信した。

 三回目の誘いがあった時、どのようにして断ろうかと思っていたが、その後、不思議なことに相手からの連絡はプツリと途切れてしまった。任期が終わって本国へ帰国したのか、我々からは大した情報が得られないと見定めて接触をやめたのか、真相は分からない。いずれにせよ、あれ以上、深みに入ることがなくてよかったことは確かだ。

2022.7.24 高倉健とスパイ

 スパイは相手組織へ潜入するため、偽の身分証やカバーストーリー(架空の経歴)によって別の人物になりきる。そういう意味において、スパイは実世界で演じる究極の役者と言えよう。

 役者といえば、高倉健も〝高倉健〟を演じきった究極の役者である。寡黙、ストイック、不器用でまっすぐな気性……等々というのが〝健さん〟こと高倉健に抱く我々のイメージである。実際の高倉健(というより、本名の小田剛一)は、意外にお喋りで冗談もよく言い、女性にも手が早かったらしい。しかし、彼は自分に対する世間のイメージを崩さないため、たとえば、撮影現場では「他の共演者やスタッフが一生懸命頑張っている時に、自分だけ座っていられない」と言って、休憩用の椅子に腰かけることなく立っていたという。こうしたエピソードは、高倉健が実生活においても、周囲の目があるところでは、意識して高倉健であろうとした証左ではないだろうか。テレビにほとんど出演せず、インタビューも限られたものしか受けないなど、素顔や私生活を厚いベールで包んで、徹底して高倉健を演じきっていたのである。

 ヤクザ、刑事、軍人などの役柄を多く演じてきた高倉健だが、不思議なことにスパイ役は一本たりともない。仮にスパイを演じたとしても、およそ似つかわしくない。スパイ(スパイヒーローではなく、実際のスパイ)は如才なく誰とも親しくなれる性格で、外見も他人にあまり印象を残さない平凡な容姿が適しているとされている。寡黙で孤高を貫いていては、相手から情報を得るのは難しいだろう。また、黙っていても絵になる偉丈夫な二枚目では人目にも付く。

 武骨で意志の強そうな顔と、すっくとした立ち姿―やはり、高倉健は軍人(映画『鉄道員(ぽっぽや)』で演じた健さんは、駅員というより軍人にしか見えない)がよく似合う。

2022.7.10 安倍元首相を殺めた男

 一昨日(2022年7月8日)、安倍元首相が奈良市内で街頭演説中に銃撃され亡くなった。新聞の社説、各政党党首や識者は、皆一様に「民主主義に対する暴挙」とコメントしているが、筆者はこの論調に首肯しかねる。

 政治家に対する凶行については、たとえば、1960年に社会党の浅沼委員長が右翼の少年に刺殺される事件があった。近年では2007年に長崎市の伊藤市長が暴力団の男に射殺されている。しかし、今回の事件については、捕まった犯人の男が供述しているように、安倍元首相の政治信条に対する恨みではなく、ある宗教団体とのトラブルが犯行の動機のようだ。男によれば、彼の母親がある宗教団体にのめり込んで莫大な借金をつくり、このため家族が崩壊したらしい。当初、男はこの教団の代表を狙おうとしていたが難しく、教団につながりがある安倍元首相に矛先を変えたらしい。

 確かに男が言うように、犯行の動機には宗教団体が関係していると思われるが、筆者はそれだけが理由で安倍元首相を狙ったとは思えない。

 男の以前、勤めていたアルバイト先の上司によれば、彼はおとなしい性格だったらしい。しかし、周りとの協調性に欠け、突如キレることがあったという。41歳で無職、独身。人づきあいが苦手で恋人や友人もいず、おそらく親族とも没交渉であろう。孤独で誰にも認められない存在。心の奥底には自分の境遇への不満や社会に対する恨みが鬱積していたに違いない。そうしたルサンチマンが沸点に達したとき、こういうタイプの男の心に宿るのは、自分をのけ者にしている世間に対し、アッと言わせるようなことをして、自分の存在を認めさせたいという衝動だ。昨年12月に発生した北新地ビル放火殺人事件で多くの人を巻き込んで自殺した犯人の男も「死ぬときくらい注目されたい」と言っていたという。

 男が抱く歪んだ承認欲求・英雄願望が、白昼に公衆の面前で一国の元元首を殺めるという行動に駆り立てたのではないだろうか。教団の代表を殺めるより、遥かに世間に衝撃を与え、耳目を集める。

 夜中、アパートの一室で、鉄パイプを鋸で切って自家製の銃を作っていた男(マスコミは男が元海上自衛隊員だということで、いかにも銃器の扱いに習熟しているような扱いをしているが、それは関係ない)は、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』に出てくる、ド・ゴール仏大統領を暗殺しようとする殺し屋、あるいは映画『タクシードライバー』でロバート・デ・ニーロが演じた、ヴェトナム帰りの孤独な元海兵隊員のタクシードライバー(この男は集会に来た次期大統領候補を狙撃しようとする)に自分の姿を重ね合わせていたかもしれない。

2022.6.25 映画「ひまわり」

 イタリアを代表する名優、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演した映画「ひまわり」がリバイバル上映されていたので、観に行った。

 第二次世界大戦下のイタリア。アントニオとジョバンナの新婚夫婦は、夫を戦争に行かせないために、アントニオの精神がおかしくなったような狂言芝居をうつ。しかし、それが嘘と分かって、アントニオは、懲罰として過酷なソ連戦線に送られてしまった。やがて戦争が終わるが、アントニオの生死は不明。夫は生きていると信じるジョバンナは、夫を探すためにソ連に出向く。鉄のカーテンの向こう側を象徴するような赤の広場、見渡す限り一面に広がったひまわり畑(このひまわり畑のロケ地はウクライナだという。ちなみに、ひまわりはウクライナの国花である)など、ソビエトの風景が印象的である。ようやく夫の居所を探し当てたジョバンナが見たのは、アントニオの命を救ったロシア人女性と結婚して、幸せな家庭を築いている元夫の姿だった……。

 戦争で引き裂かれた男女の哀しい愛を描いた、世界中が感涙した名作である。日本でも大ヒットし、1970年の初公開以来、何回かリバイバル上映されている。そして2022年、ロシアから侵攻を受けているウクライナを支援するため、全国各地の映画館で再びこの映画が上映された。

 筆者は、これで合計4回観たことになる。最初は公開の年。当時、小学4年生だった筆者は、SL(蒸気機関車)好きな父親に連れられてこれを観た。この映画には、出征兵士の見送りや出迎えの舞台となるミラノ中央駅、夫に妻子がいることを知り、ジョバンナが逃げるように汽車に飛び乗ったウクライナのとある村の駅、そして、アントニオとジョバンナの永遠の別れとなるラストシーンなどでSLが出てくるのだ。肝心の映画の方は、まだ十歳だった筆者には男女の感情などがよく理解できず、退屈だという印象しかなかった。

 二回目は中学生か高校生の頃、テレビの洋画劇場(当時は、このような番組があった)で放映されていたのを観た。さすがに、その頃になると映画の内容は理解できた。

 三回目は大学生のとき、合コン(今では、この言葉も死語になってしまった)で知り合った女性とのデートで観た。映画を観終わった後、「どちらの女性がタイプ?」と彼女が尋ねてきたのを今でも覚えている。

 この映画は、ソフィア・ローレン演じる気性の激しい情熱的な南国女と、リュドミラ・サベーリエワが演じる可憐で物静かだが芯の強そうな北国女という、対照的な女性のタイプが描かれている。筆者の好みは後者なので、彼女にそのように答えた。

 その後、彼女とは数回デートしただけで長くは続なかった。あれから40年。現在、筆者は別の女性と結婚している。結婚した相手は、よく笑い、よく喋り、怒ると機関銃のようにまくし立てる女性だ。映画で観たロシア娘のようなタイプではなかった。……4回目の「ひまわり」を観て、そんなことを思った。