誰しも人生をもう一度やり直せたらと思ったことがあるに違いない。
白石一文の『道』は、そんな思いに訴えかけてくる小説である。主人公の功一郎は大手食品会社に勤めるサラリーマン。3年前に大学生の娘を交通事故で亡くし、それがきっかけで妻は心を病み自殺未遂を起こしている。会社の仕事を背負いながら、義妹の助けを借りて妻を看護する毎日。そんな矢先、妻が再び自殺未遂を起こした。限界を感じた功一郎は中学生のときに体験した、あることに望みをかける。それは高校受験に失敗した彼が、「道」と題された絵の前に立った途端、タイムスリップして受験会場に舞い戻った奇妙な体験だった。人生の行き詰まっていた功一郎は、同じ「絵」の在処を探し出し、娘が事故に遭う直前の世界に戻る。彼は娘の生きている世界で、果たして望んだ人生を取り戻すことができるのだろうか。
この作品には「悲劇の総量はどの道を選んでも変わらないの」という文が、しばしば出てくる。「絵」によって功一郎は、娘が生きている世界で暮らすことになるのだが、別の不幸が彼を待ち受けていた。自分の人生をやり直せたとしても、別のところで何かが起こり、結局のところ人生はそんなに変わらない。……筆者はこの作品から、そんな思いを強くした。さらに言えば、人生を左右するのは、結局、その人の性格ではないだろうか。
筆者は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊した。しかし、すぐに陸上自衛隊に入るべきだったと後悔した。もし、陸上自衛隊に入っていたら、自衛隊を辞めず、今頃は輸送隊で活躍し、幹部になっていたかも……海上自衛隊を辞めた後、長らくそんなことを夢想していた。しかし、不器用で何をやらしても要領の悪い筆者のこと、もし陸上自衛隊に入っていたとしても、結局、自衛隊を辞めていただろう。
大学を卒業して、今の勤め先である団体の事務局職員になったが、本当は新聞記者になりたかった。しかし、社交性に欠ける筆者の性格では、サツ回りで苦労しているだろうし、夜討ち朝駆けの記者生活で体を潰している可能性さえある。そして、「ああ、もう少し楽な公務員か団体職員にでもなっておけばよかった…」と嘆息していることだろう。
妻のことも同じである。筆者の妻は自分とは正反対で明るく社交的だが、気が強くて口喧しい。このため、もっと大人しい静かな女性と結婚したらよかったと思うことが、しばしばある。しかし、大人しい女性と二人きりでいると会話も途切れ、気詰まりな思いをする。今の妻と結婚していなくても、筆者は、やはり明るくてよく喋る女性(その代わり口喧しい)と結婚していただろう。
どんな人生を選択しても、性格が同じなら、ある事象に対して同じように感じ、同じように対応するものだ。人生は、その時々の自分が執った対応の結果である。ゆえに、人生をもう一度やり直せたとしても、(確かに置かれている環境や相手は異なるかもしれないが)、今の人生とそんなに変わらないのではないか。