神戸ファッション美術館で開催中の「超・色鉛筆アート展」を見に行った。
色鉛筆は誰しも子どもの頃、お絵かきやぬりえで使っていた親しみのある画材だ。しかし、侮るなかれ。筆圧の調整や重ね塗りによって、多彩で奥の深い趣が出せることから、色鉛筆で描くプロの画家もいる。同展覧会では、現在、我が国で活躍する色鉛筆作家12人の超絶技巧=「神ワザ」を紹介していた。
展覧会を見て筆者が驚いたのは、ネコを描いた作品の多さである。120点の展示作品の内、実に四分の一がネコの絵だった。そして、どれもが毛の一本一本まで精緻に描かれ、写真と見まがう出来栄えだった。それに対してイヌを描いたのは、わずか一点だけ。
書店に並ぶ動物の写真集も、イヌよりもネコの方が多い。文学も同様。『フランダースの犬』(ウィーダ)や『荒野の呼び声』(ジャック・ロンドン)のようなイヌが主役の作品もあるが、ネコが登場する小説の方が圧倒的に多く、しかも、『黒猫』(ポー)、『牝猫』(コレット)、『吾輩は猫である』(漱石)、『猫と庄造と二人の女』(谷崎潤一郎)などのように文学性も高い。
また、作品に取り上げるだけでなく、実際にネコを飼っている作家(小説家、漫画家、写真家を含む)も多い。作家の仕事机の上を悠然と歩くネコが映る場面をテレビでもよく見かける。
なぜイヌよりネコを描いた作品の方が多いのだろうか? それはネコの持つミステリアスな雰囲気、こちらの心の内も見透かしているようなあのクールな目、人に媚びない孤高な態度が作家の創作欲を掻き立てるのだろう。愛すべきお馬鹿さんとも言うべきイヌの天真爛漫さは、どうやら芸術にはマッチしないようだ。
筆者もネコを見ていると(と言っても、飼っているわけではないが)、小説になりそうなシチュエーションが脳裏に浮かぶ。ある独身の男が真っ白な美しい牝猫と暮らしている。その牝猫は夜になると妙齢の女性に姿を変えて・・・。しかし、こんなモチーフは、既に誰かが作品で書いているに違いない。では、こういうのはどうだろうか。この独身男性には恋人がいて、彼女がその牝猫に嫉妬して、牝猫を殺してしまう・・・これも、二番煎じだろう。それならば・・・
なるほど、作家ならずとも、ネコは見ている人の創作欲を掻き立てる魅力的な生き物である。