筆者は本によく線を引く。読んでいて重要だと思った箇所、覚えておきたいフレーズ、共鳴した文章などに出会うと、マーカーやボールペンなどでそこに線を引いている。
なぜ線を引くのか。原点は中学生の頃の試験勉強だろう。教科書や参考書を読んでいるだけでは、なかなか頭に入りづらい。しかし、自らの手を動かして大事な個所に赤エンピツ(今では化石のような存在だ)やマーカーで線を引くと、その箇所が強調されるとともに、線を引くという身体的な行為によって、頭への定着を手助けていたのだ。
それから五十年以上経った今でも、本だけではなく、ホームページやメールの文章を読むときも同様だ。パソコンの光る画面上の文字はどうにも上滑りしてしまい、頭に入りにくい。そのため、本当に頭に入れたいときは、そのページをわざわざプリントアウトし、それに線を引いている。アナログ人間の悲しい性だが、パソコン画面の文章が頭に入りにくいことは科学的にも根拠があるそうだ。
世の中には筆者と同じような習性をもつ人がいるもので、古本(又は古書)を読んでいると、前の読者が引いた線や書き込みに出会うことが時たまある。かつて、この本を所有していた人も、ある文章で心を動かされ、思わずペンを走らせたのだろう。その文章が筆者にとって、さほど重要に思えないときは、「へー、前の読者はこういうことに心を動かされたのか」と、それはそれで興味深い。逆に筆者も同じように心を動かされる文章だった場合、前の読者と同じ価値観を共有しているようで嬉しくなる。――本に引かれた線という痕跡を通じて、筆者は顔も知らない前の読者と会話しているのだ。
翻訳家でエッセイストでもある青山 南氏は1984年にニューヨークで小説家のピート・ハミルに会ったとき、ユードラ・ウェルティ(主にミシシッピ州を舞台に、人々の繊細な心理や生活を詩的な文章で描いたアメリカの女流作家)の発言集を貰った。本を開くと、あちらこちらに黄色のマーカーで線が引いてあった。本そのものは「ウェルティの本」だが、ハミルが線を引いた箇所を拾っていくと、「ウルティの本で作ったハミルの本」ということにもなる。線を引くことは、線を引きながら、別の本を作っているのだと、著書『本は眺めたり触ったりするのが楽しい』(ちくま文庫)の中で述べている。
ここまでいくと、本に引かれた線は覚えるため行為や感動の痕跡を超えて、作品そのものになり得るといえよう。